Happy Days・9



★★★

大山十四郎は、妻の運ばれた部屋に赴いていた。
扉の前に立って、ノックをするか否か数秒迷う。しかし、一応叩くかと拳を上げたところで扉が開いた。


「どうぞ、弥生さんはもう目覚めています」


扉を開けたのは、テーラ・O・ハーロック。赤褐色の長い髪、土色の瞳。その眼差しは厳しく、ともすれば気高い二次成長前の少年のような。

美しい女だと十四郎は思う。美的感覚というものは個人の趣向によって異なるものだ。十四郎の感覚に果たして『人間的』な美的感覚が備わっているのか、それは十四郎にはわからない。ただ、テーラの顔や肉体は比率が良い。
身体のバランスが良い。十四郎が思うのは、ただそういうことである。

人形を見ても、多分同じ感想が湧く。無機物と有機物、それを分ける感情的な手立てが、十四郎には無いのだ。生まれつき、ずっと。


「そうか。なら入る」


帽子の中には、トリの雛。小さな敏郎が抱いていた卵から生まれたモノだ。
敏郎。弥生が『愛する』、十四郎の種。姿形は全くの相似でも、アレの中身は弥生に似ている。

だから、滅びるはずだったトリの命を救った。天にも地にも、もうタイタンのオオトリはこの雛一羽だというのに。子孫を残す手立ての無い生き物が生き延びることに、一体どんな意味があるというのだろう。十四郎には、その思考が理解出来ない。

死に逝くもの。生き延びるもの。命というものの流れに則するのならば、どちらも等価値なのだ。種にとっては。

だから何故、盟友ハーロックが自分の命を惜しむのか、そのことも十四郎には理解出来ない。自身は病に侵されて、近く死に到る。けれど、それは“エルダ”という種が滅ぶということではないのだ。十四郎のあとには、きっと敏郎が続くだろう。大局から見れば変化など無きに等しい。


けれど、弥生は泣くだろう。あの『優しい』妻は、十四郎の持たないものを多く持つ。生を慈しみ死を厭い。そんな彼女は、きっと十四郎の死を悼むだろう。そのことを思うと、頭の中がぼんやりとする。胸の辺りが何ともいえない感覚に陥る。その感覚を纏め、名づける術は十四郎には無い。

宇宙で14番目の叡智の使徒。類まれなる智力と引き換えの欠陥。


大山十四郎には、情動が無い。この胸を震わす波が無い。


十四郎は、ふと、妻にどんな言葉をかければ良いのかと考える。「任せろ」や「信じろ」だけでは、足りないだろうと思う。小さな敏郎の身を慮ったようなことを言わなくては、とも思う。けれど、どう『慮る』のかがよくわからなかった。敏郎が、そんなにも容易く敵の手にかかるなどということは十四郎の計算上全く有り得ない。アレには、十四郎の全てを叩き込んである。

敏郎はきっと、十四郎が着くまで上手く時間を稼ぐだろう。ハーロックの子、澪の子もそれ相応に『扱える』筈だ。それが出来ないのなら、アレのことは諦めるほかにない。

弱い種は、滅びていくのだ。早くとも、遅くとも──必ず。


「どうか──なさいましたか」


テーラがそっと廊下に出てきた。機械のような精密な足取り。男に生まれていれば、彼女はきっと優秀で美しい戦士になっただろう。十四郎は「別に」と歯を剥き出して笑って見せる。楽しいという感情がわからなくとも、案外『笑える』ものなのだ。


「弥生をどう励まそうかと考えておったのだ。お前さんならどう励まされた
 いかね? テーラ」


「私に励ましなど不要です。必ず助ける、信じろと仰って頂ければ充分です
 わ」


無感情なアルトだ。この声は良い、と十四郎は思う。機械のように精密で、
機械のように冷たい方が十四郎には良いのだ。いつも不安定に『揺れている』モノの方が違和感がある。弥生は何故、もっと静かにしていられないのだろう。この無機質な人形に似た彼女のように。


「女というものは「必ず」だけでは不足ではないのか。優しい言葉で労わら
 なければならないと、書物で読んだことがあるが」


「ならば、そのカテゴリに私は当てはまりません。けれど、弥生さんは
 貴方に労わられれば嬉しく、申し訳なく思うでしょう。彼女は優しく、
 儚く、けれど芯には強さを持った女性……。たとえ、貴方からの言葉が
 なくとも、貴方を信じます」


「当然だ。敵の正体はもう判明している。俺達は負けない。あとは、敏郎が
 ヘマをしなければ100%、夜明けまでにはこの城に戻って来られるだろう
 さ」


「大丈夫ですわ。私のファルケ・キントは、きっと小さな敏郎さんや澪中佐
 のご子息を守り抜くでしょう。それが出来ずに滅んだときは──それは
 フリューゲルや貴方の責任ではありません。弱い種なら、滅びます。ただ
 それだけ」


「自分の息子ではないのかね。心配では?」


「貴方こそ、ご自分の妻と子でしょう。慰めの言葉ならご自慢の叡智で
 お考えになってはいかが? 凡百たる私に尋ねても何ら良い策など見つ
 かりませんよ」


数秒間の沈黙。十四郎は、少し驚いていた。女という生き物は自分の胎内から生まれてきたものにもっと優しいのではなかったか。少なくとも、弥生は
敏郎を本当に小さな赤ん坊の頃から慈しんでいたというのに。


「お前さんは確かにうちの弥生とは違う女だなぁテーラ」


「えぇ、私は弥生さんとは違う女。だから、貴方に出来る最大限で優しく
 して差し上げて下さいな。敏郎さんのこと、貴方の体のこと、とても
 案じておりましたわ」


「ん。そうか」


テーラがすっと十四郎から離れる。香水の香りさえしない女。心地良い女だ。
十四郎は、彼女の背中を目を細めて眺めた。


「ところで、お前さんはあの童──ファルケ、だったか? アレに愛着は
 感じておらんのかね? 自分の腹から生まれた夫たる男の種だろう?」


「………」


ぴた、とテーラが足を止める。振り向いた彼女の表情は、どこまでも無感情で、どこまでも無慈悲で。


「愚問、ですわ。偉大な叡智の使徒──限りなく0に近い、14番目の
 “エルダ”様」


それきり、足音も無く暗い廊下の向こうに消える。「愚問か」と十四郎は頬を掻く。何が愚問なのかは解からなかった。しかし多分、哀れまれたのだろうということだけは推測出来る。それだけだ。言葉以上のものを汲み取る術は、十四郎には無い。


「弥生、入るど」


「あなた」


半開きになっていた扉の隙間から、部屋に入る。ドレスから、ゆったりとしたネグリジェに着替えて、弥生がベッドに横たわっていた。


「貴方…申し訳ありません。私1人、こんなみっともない」


「母親が自分の子の身を案じるのは道理。みっともないなどと、誰も
 思ってはおらん。そう申し訳がるな」


「でも──」


上体を起こして、俯く。長い睫毛の先が震えていた。彼女はどうしてこんなに壊れてしまいそうなのだろう。畑で野菜の世話をしたり、洗濯物を干したりしているときの彼女は、とても堂々していて美しいのに。十四郎はベッドの端によじ登り、妻の髪に触れてやる。


「これから、俺達が童共を助けに行ってくる。何、それほど難しいことでも
 なかろうよ。ハーロックがいるし、澪もついとる。夜明けまでには戻れる
 ど」


「はい。支度をお手伝いいたしますわ。貴方」


「いいさ、支度などないのだ。他の連中は何やらしておるが、俺には何も
 必要ない。お前は寝てろ」


「でも──貴方は。貴方のお体は……」


小鹿のような大きな瞳が、憂いに揺れる。弥生の小さな頭が、十四郎の肩に預けられた。十四郎は、ふぅ、と息を吐く。


「何が、不安だ? はっきりと言わなければ俺には伝わらんど」


「貴方は……病ですわ。もし、戦いなどになったら」


「負けると思うのか? この俺が?」


「いいえ。でも、貴方はただでさえタイタンでもご無理を」


「無理などない。弥生、そろそろ俺は行くど。お前には、コレを頼もうと
 思っておったのだ」


「コレ──?」


十四郎は彼女の背中にクッションを敷いてやり、帽子の中に入れておいたオオトリの雛を渡す。弥生は「まぁ」と目を見開いて、優しく表情を綻ばせた。


「孵っていたのですか。良かった、敏郎が喜びますわ。あの子、本当に
 一生懸命温めていましたもの」


「うむ。いつもタマゴを腹の中に入れておったな。男のくせに腹を膨らませ
 て珍妙なことこの上なかったが……男にも母性本能があるのだろうか。
 それとも、アレは男に見せかけた女なのか。うーむ、セックスチェックが
 必要であろうか」


「優しい子なのですわ、貴方に似て」


「優しいか? 俺が」


はい、とても──と、弥生が頷いて笑う。彼女の表情は何と多彩なのだろう。人らしい感情をおおよそ持たずに生まれ落ちたこの夫を、彼女の瞳はどのように映し、その心はどのように感じているのか。わからないまま、十四郎は帽子を深く被り直す。


「そう思うのは、お前の自由だ。それでは行ってくる。トリの面倒を見て
 おいてくれ。餌はこの袋の中に」


虫の入った袋を取り出そうとして、ふと手を止める。そういえば、弥生は昆虫が苦手だったか。以前、畑の野菜についた芋虫一匹取り上げられずに大騒ぎをしたことを憶えている。


「…いや、何か穀物を煮て食べさせてやれ。こいつは雑食だ。肉以外なら
 何でも好き嫌いせずに喰うだろう」


「はい、貴方。お任せ下さい。だから、どうか貴方もご無理はなさらないで」


雛を両手で包み込み、掠めるように額にキスを。十四郎は離れた妻の頬を一度撫でて、ひらりとベッドから飛び降りた。


「わかった。無理はしない。お前は朝飯の支度でもして待っていろ」


「はい──いってらっしゃいませ、貴方」



弥生に背を向け部屋から出ると、廊下の壁に背を預け、グレート・ハーロックが所在無さげに立ち尽くしていた。純白の気密服を身に纏い、腰にはコスモドラグーンを吊り下げて、右腕には何やらコートのようなモノをかけている。

「なーにか」と、十四郎は扉を閉めてそう鳴いた。


「来たのなら入れば良かったのに、一体何をしておるのだ。弥生はお前を
 尊敬しておるからな、お前が一緒に大丈夫だと言ってくれればもう少し
 安心したであろうよ」


「……いや、入ろうと思ったのだが…君達があまりにもストロベリーな会話
 をしていたので、つい」


恥ずかしそうに頬を染めて俯く親友。「なにが」と十四郎は小首を傾げた。


「何がストロベリーだと言うのだハーロック。俺に比喩や暗喩は通じないど。知っ
 てるくせに」


「だから、君達があまりにも……いや、良いんだ。忘れてくれ」


30も越えたというのに一体何をそう恥らうのか。ハーロックが俯いてしまったので、十四郎は「さよか」と頭を掻いてストロベリーやらの話題を終了させる。


「ところで、準備は済んだのか? 確か電話では0時までに来いと」


「あぁ、もうみんな外に集まっているよ。澪が五月蝿いからな。無粋かとは
 思ったが、私が君を迎えに」


「無粋ということはないが──うむ、スマン。弥生は少々感情の揺れ幅が
 大き過ぎる」


リビングから、大広間へ。大広間から、外へ。ハーロックが十四郎の短い足に歩幅を合わせながら「そんなことはないさ」と穏やかに否定する。


「弥生殿は普通だよ。母というものは皆そうだ。自分の腹から産まれた愛す
 る男の種──。その身を案じぬはずがない。特に、トチローくんは歳より
 も体がずっと小さくて、この国の寒さにも慣れていないだろう。不安になっ
 て当然というものだ」


「そんな弱っちろいガキに育てた憶えはないがなぁ。ところでハーロック、
 そのコートは何なのだ? お前のジュニアに持っていくのか」


「いや、これは」


外に一歩出て、ハーロックが足を止める。十四郎もつられて足を止めた。
数メートル先には黒塗りのベンツ。澪や時夫、テーラまでが一緒になって何やらトランクに積み込んだり、後部座席で作業をしている。


「大山」


十四郎の視界を遮るように、ハーロックが膝を折った。


「大山、これを」


差し出されたのは、サイズ130センチほどのダッフルコート。焦茶色のカシミア地。袖口やフードの周りにチンチラのファーがついている。捲くってみれば、中にも毛皮。状態も良く、真新しい。


「良いコートだな。古着屋に持っていけば高く引き取ってくれるだろう。
 しかしこういうモノの目利きは俺よりもお前の方が」


「いや、鑑定ではなくて──大山、マントを脱いでこれを着なさい」


「なぬ?!」


久しぶりに、表情が変わるほど驚いた(ような気がする)。ハーロックが
持っているのはどう見ても子供用のコートだ。どことなくファンシーなそれ
を、30過ぎの男に着ろというのか。


「断じて断るど! 子供のコートなど──袖を通すのも屈辱である!!」


「屈辱って…お前、そんな上等な感情持ってねーじゃん。気のせいだって」


澪がトランクから顔を上げ、呆れたように眉を寄せる。気怠そうに着こなしていたスーツ姿から一転、連邦軍胸章の入った紺色の軍服に着替えている。

「だけど」と同じく軍服に着替えた時夫がハーロックに視線を移す。


「良いんですかハーロック。それ、ジュニアくんのでしょう? 大山なんか
 に着せると臭いが移りますよ。クリーニングしても落ちないような、濃い
 体臭が。ジュニアくん泣きますよ」


「構わないさ。これはもうファルケ・キントには小さいのだからね」


少し寂しそうに、ハーロックが微笑む。


「子供というものは少し見ないうちに大きくなってしまうものだ。このコー
 トもあの子にとても似合っていたけれどね」


もう着られないのだよ、とさりげなく十四郎のマントを引っぺがしに来る。こらこらこら、と十四郎は、殊勝な顔つきの親友を叩いた。


「切なげな表情でナニをするのだ。お前という男は何と油断も隙もない」


「いや、だから遠慮なく着てくれて構わないのだよ、と」


「だーから! 子供服など断じて断ると」


「着とけって、余命幾ばくもねーんだろお前。あんまり寒いと寿命までチヂ
 ムぞ」


澪がすたすたと歩いてきて問答無用にマントを引っぺがす。抗議の声を上げる前に、ハーロックがすっぽりと十四郎の身体にコートを着せた。素早くボタンを止め、フードを被せてくる。よしよし、と頭を撫でられて十四郎は脱力した。──相変わらず物凄いコンビネーション攻撃だ。


「プッ……南極探検隊…」


時夫がすかさず馬鹿にする。「笑っちゃ悪いだろ」と澪が応じた。


「でもアレだぜ大山。こりゃ多分ジュニアが着るより似合ってンぞ。何てい
 うか──フンボルトペンギンみたいで」


ぶふ、とわざとらしく笑いを堪えるその表情。十四郎は、あぁ、10年ぶりくらいにムカつくなぁ、とぼんやりと思う。


「こらこら、止しなさい時夫、澪。大山、済まないな。何も君を揶揄する
 目的でコートを持ってきたわけではないのだよ。それをペンギンなどと
 ──…どちらかというとタヌキかな」


色が一緒だ、と1人納得するグレート・ハーロック。背後で「あーははは」、「ひゃーははははは」と時夫と澪の爆笑が重なった。


「タヌキ! タヌキだってよもう駄目だぁあひゃはははははははは」


「30にもなって子供服着てられるなんて奇跡でしょうにあーはははは」


「見た目は子供、頭脳は大人ってか?! ぶふーッ!!」


「あーはっはっはっはっはっ。もう駄目です。もう死にます。戦いに行く前
 からトドメ刺されちゃいましたよあーははははは」 


ベンツのドアやトランクに突っ伏して笑い転げる地球連邦陸軍コンビ。
こんな連中に地球の平和を守られてるとは思いたくないものだ。十四郎は溜息を1つ、さっさと車に乗り込むことにした。
ドアにもたれて痙攣する澪の脚を蹴り飛ばし、ドアの隙間から後部座席に侵入を試みる。

が、何者かに首根っこを掴まれて、あっさりと足が宙に浮いた。


「貴方」


十四郎を掴まえたのは、美しいテーラ・O・ハーロック。


「貴方、チャイルドシートの設置が完了しましたわ」


「あぁ、ありがとうテーラ。素晴らしい手際だ。さすがは私の妻」


「慣れておりますもの。このくらい」


「懐かしいね、よくこのシートに小さなファルケ・キントを乗せて
 時速300キロでアウトバーンをすっ飛ばしたものだ」


足音も立てずにやって来て、反対側から後部座席を覗くハーロック。シートの設置具合を確かめて「素晴らしいよ」と再度妻を褒めてやる。


「これなら全速力で走っても安全だろう。君の仕事は完璧だ」


「当然ですわ、貴方。そうでなくては、貴方の運転するベンツでアウトバー
 ン時速300キロなど、到底幼児だったあの子には耐えられませんもの」


「あぁ、最初は慣れないGに泣いたり吐いたりしていたあの子も、最後には
 涙1つ浮かべずに目的地に到着出来るようになって」


「懐かしいですわ、貴方」


「懐かしいな。まだほんの2、3年前のことなのに」


ふふふ、あはは、と爽やかに笑いあう2人。逆に、他の一同から笑顔が消える。


「この、鬼夫婦が」


澪が口元を引きつらせた。「何故?」と同時に目を丸くするハーロック夫妻。
わかってないところがまた怖い。十四郎はただ宙につられて瞬きをする。


「バッ…何故? じゃ、ねぇだろ。何だよ時速300キロって! おめーは
 ガキをナニにする気なんだよナニに!!」


「ナニって…宇宙海賊」


ハーロックの眼差しには一点の曇りも無い。澪は「あぁあ」と、ベンツの屋根に頭を乗せる。


「良いから行こうぜ。うちのオタクも、大山ん家の仔タヌキも、グレート・
 ハーロック様々のお逞しいお坊ちゃんも待ってるぜ、きっと」


「お逞しいなどと。澪、零くんだって今からでも訓練すればきっとファルケ・
 キント以上の男に」


「──皮肉も通じねぇでやんの」


諦めた、と助手席に乗り込む澪。時夫もさっさと後部座席に移動する。ハーロックが運転席に座って、十四郎はテーラに掴まれたままだ。


「おいテーラよ。俺も行くのだ。この手を離せ」


「いけません。座るのにも順番というものがありますもの」


テーラは笑みすら浮かべず冷静である。あのチャイルドシートと何か関係があるのか、と十四郎は大人しくぶら下がった。そういえば、アーサーもまだ
来ていない。



「すみません、遅くなりました!!」



アッシュグレーの髪、ブラウンの瞳。星野・アーサー・巧が白い頬を真っ赤にし、息せき切って駆けて来た。

子供用の連邦陸軍軍服。腰に巻いたガンベルトにはやはり子供用のサーベルとコスモ銃を下げている。後部座席に転がるようにして乗り込んだ少年を、時夫が笑顔で出迎えた。


「おやおや、似合うじゃありませんかアーサーくん。サイズが少々大きいで
 すが、着こなしもなかなか。一端の戦士に見えますよ」


「兄が教えてくれるんです。ガンベルトの着け方とか──色々」


アーサーは恥ずかしげに、けれど自慢げに頬を染める。「お兄さんかぁ」と澪が座席から身を乗り出す。


「兄弟っていうのは良いよなぁ。俺にも兄貴がいてさ。仲良いのか?」


「悪くはないですよ。でも、怒らせると恐くって。きっと、このことを知ら
れたら大ゲンコツです」


そもそもは俺の方向音痴のせいですから。アーサーは本当に申し訳なさそうに時夫の隣で身を小さくする。チャイルドシートに座る気配も、誰かがそれを促す気配もない。十四郎はテーラの手を振り切って地面に降り立ち、「おい」とハーロックの膝によじ登った。


「俺の席はどこなのだ。アーサーがあのシートに座るのだろう?」


「このまま私の膝でも構わないがね大山。けれど、それは危ないから」


抱き上げられ、君はこっち、と時夫の手に移動させられる。何が何だかわからぬうちに、十四郎はチャイルドシートに乗せられた。


「ベルトはきつめにしておきますね。はい、息吸ってェ、お腹引っ込めてェ」


「ぬぁ?!!」


あっという間にシートベルトでぐるぐる巻きにされる。もはや、シートベルトなどというレベルではない拘束ぶりだ。「ナニをするのだ」と十四郎はじたばたと不自由な身体で目いっぱい暴れる。


「コートはまだ良い! だがチャイルドシートに座ることなど断じて断る!!
 大体、このようなモノにはアーサーのような童がだな」


「俺、もう6歳ですよ。チャイルドシートの世話にはならなくていい歳です」


「俺だってこんなモノの世話にはならん年頃じゃー!!」


「うわぁ、珍しいなぁ。そんなにも嫌がるお前」


観念しとけよ、と澪が頭の後ろで腕を組む。観念出来るか、と十四郎は助手席のシートを蹴り上げようと足をバタつかせた。が、悲しいかなコンパスの長さが少々足りない。こんなところで体力を無駄に消耗するのも馬鹿げたことだ。十四郎は仕方なく項垂れた。


「良いじゃありませんか。これに座ってりゃ万が一事故っても安全ですよ。
 テーラさんがお弁当も持たせてくれたし、ピクニック気分でリラックスし
 ましょう」


時夫が鼻歌交じりにバスケットを取り出した。「そうだなぁ」とハーロックが
エンジンを入れる。


「どうせ敵地に赴くまですることもないのだ。お弁当でも食べながら、何か
 ゲームでもしようか。澪」


「え、じゃあ古今東西『萩●望都先生の名作から名台詞抜粋』」


「……好きだな、萩尾●都先生が」


「あぁ、俺、どっちかっつーと少年漫画より少女漫画の方が好きなのよ?
 知らなかったかメリーベル」


「誰がメリーベルだ」


「お前じゃん。だって、お前の学生時代のあだ名──へぶッ!!」


予告も無しに急発進。がくん、と大きく車体が揺れる。「うわぁ」とアーサー、時夫が前のシートの頭をぶつけ、シートベルトもしていなかった澪は思い切り窓に額を打ち付ける。


「てっ…てめ、この急発進!!」


「あぁ、申し訳ない。子供達のことを思うと気が急いてな」


「う、嘘付けこのヤロ──痛でッ!!」


急ブレーキ急停車。澪は思い切り前につんのめって、シートに後頭部をぶつけた。大げさに痛がるところを見ると、先程ブランデーの瓶で殴られたとこ
ろと同じ場所を打ったのか。


「……本ッ当に酷い性格だよな、お前。見た目メリーベルの中身エドガー。
 もう最悪」


涙目になりつつ、シートベルトをきっちり締める。「気をつけたまえ」とハーロックは再び車を発進させつつ嘯いた。


「私の運転は泣く子も黙らせるのだからね。あんまり喋るとお空に放り投げ
 られるよ、澪」




★★★


「行ってしまいましたね…みんな」


ベンツのテールランプが夜の闇へと消えたあと、弥生がふらつきながらも
玄関に出て来た。「休んでいなくてよろしくて?」と、テーラは彼女の華奢な身体を支えてやる。


「ただでさえ、慣れない環境でお辛いでしょう。弥生」


「いいえ、夫達が戦いに赴いたというのに、どうして私だけベッドで休んで
 いられるでしょう。貴女も立っているのです。私も」


「私は、普通とは違う女だということですもの。お気遣いなど必要ありませ
 んわ」


弥生に肩を貸し、リビングに戻る。後片付けをしていたメイドの1人に紅茶を持ってくるように言いつけて、彼女をソファに座らせた。


「さぁ、紅茶を持ってくるよう言いつけましたから、もう少し休んで。それ
 から、私達のすべきことをしましょう」


「えぇ…そうしましょう……」


笑顔になっても、彼女はどことなく憂いげである。幼い息子が心配なのか、とテーラはそっと彼女の傍らに座った。


「敏郎くんなら、きっと大丈夫。あんなに小さくて愛らしい子に、一体誰が
 乱暴なことなど出来るでしょう。私のファルケ・キントも、きっとそのよ
 うなことはさせません。命を──懸けても」


「はい、グレート・ハーロックと貴女の息子さんがいれば、きっとあの子は
 大丈夫……」


「では、何が不安?」


「──こんなこと言えば、あるいは母として失格かもしれませんが……」


夫の身の方が心配です──長い睫毛を静かに伏せて、弥生が身を震わせる。
テーラは、ただ「そう」と彼女の髪に触れた。


「詳しくは知らされていませんが、確か病にあるのでしたね。十四郎さんは」


「えぇ。闇の女神に愛される不幸な病……でも、それを知ってなお、あの人
 と結ばれることを望んだのは私。それは、誰に強制されたでもない私の
 意思」


「えぇ。貴女はそういう選択を出来る人。そのことは、誰もがよく知ってい
 ます」


「けれど、私は怖いのですテーラさん。タイタンの開発のため、あの人は随
 分と無理をしているわ。男が自分の夢のために尽くすことは無理でも何で
 もないのだとあの人は言うけれど…時々、私達には知られないように酷く
 咳き込むことがあるのです。きっと、あの人の命はあの人が言うよりもずっ
 と」


大きな瞳が、不安と焦燥で激しく揺れる。両手で顔を覆ってしまった、この儚くも強い女性を、テーラは出来るだけ優しく抱き寄せてやる。


「大丈夫……。フリューゲルも澪中佐も、時夫中尉も十四郎さんの身体のこ
 とをよく知ってる。たとえ彼から何の説明も無くても、本当のことなど何
 もわからなくても。あの男達はみんな真の友人。彼に何をすべきなのか、
 何が必要なのかは察しています」


「テーラさん、私──…」


弥生は涙を拭い、表情をぐっと引き締める。「信じますわ」と濡れた瞳で
見つめられ、テーラは「えぇ」と頷いてみせる。


──少々、乱暴で力ずくでしたが。


無理矢理子供用コートを着せ、チャイルドシートに拘束。その間笑いっぱなしだった澪中佐と、時夫中尉。穏やかな瞳に憂いを湛えながらも割とエゲツない方法で親友の身を案じていた夫。


「さぁ、紅茶が来ましたわ。ミルクは多めに?」


そこまでは別に言わなくても良いだろう。テーラは、運ばれてきたカップを
取り上げて微笑んだ。















●少女漫画フリークな30代男性’s。



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