Happy Days・8




★★★


「うーん…痛ててててて……」


電話が切れて数分後、ようやく澪が目を覚ました。この丈夫な男が十数分も気絶したままだったのだ。もう少し優しく殴るべきだった、とグレート・ハーロックは反省する。


「ようやくお目覚めですか澪さん。たかがブランデーの瓶で殴られたくらい
 で……寝ぼすけにも程がありますよ」


時夫が明るく澪の後頭部を叩く。ぱちん、と小気味の良い音がした。


「痛ッ……マジに痛てぇよ時夫。何か…アレだ。ただ瓶で殴られただけじゃ
 ねえ。連続して蹴られたり踏まれたりしたかのような鈍痛が」


「──…そうか」


──さすがに、鈍くはないな。ハーロックは感心する。痛みの度合いから気絶している間のダメージまで遡れるとは。ハーロックは二つ折りの携帯をぱちんと閉じて床に座り込む澪に差し出した。


「これはお返ししよう。それと…澪、どうやらファルケ・キント達を拉致し
 た輩は君の直属部隊“猛”からの離反者らしいが」


「──は? 誰?」


痛みに顔を顰めながら、澪がソファに座り直す。「ゲオルグですよ」と時夫が
手帳型モバイルを取り出した。そして、「血痕の主は同じ地球連邦宇宙機動軍第3機動隊軍曹のものでした」と続ける。


「名前はジョージ・アッシャー。ゲオルグとは同期で…あぁ、同じ士官学校
 を卒業しています。そして、連邦に問い合わせてみましたが、陸軍ではゲ
 オルグがクリスマス休暇、宇宙機動軍では第3機動隊が機密任務だか何だ
 かの名目でごっそり出払っています。ゲオルグは独身者ですので寮と実家
 に連絡してみましたが、帰ってはいないとのこと。親しい友人らも何も知
 らないそうです。彼と第3機動隊の関連性はかなり濃厚かと」


「ふぅん。でも、それだけじゃゲオルグの仕業とは決め付けられねぇだろ」


澪が携帯を懐にしまって口を尖らせる。「なーにか」と十四郎が自分のパソコンを開いて見せた。


「この通り声紋が一致しておる。連邦軍もやるではないか。入軍面接時の応
 答を録音してデータベース化しておるのだからな。照合するのが簡単だっ
 たど。無能無能だと思っていたが、中々システムが充実してきておるでは
 ないか」


にしししし、と十四郎が楽しそうに笑う。「お前な」と澪が溜息をついた。


「またハッキングしやがったのか。そんなことしなくても俺の認証コードを
 打ち込めばそれくらいのデータは」


「気絶しておるお前を叩き起こして軍用I.D.を受け取る時間が惜しいわい。
 身内に裏切り者がいたのがショックなのはわかるがな。こいつの目的は
 ──何だったかな、ハーロック」


十四郎がパソコンを閉じ、「にし」と無邪気な笑みを向けてくる。ハーロックは微笑して頷いた。


「澪、君にゲオルグ・ノイマイヤー軍曹殿から熱いラブコールを承っている。
 零くんの命が惜しければ、2人きりで決闘して頂きたいそうだ。相手は
 恐らく“ハイパードライブ”の常用者。副作用に耐え抜いた自分のことを
 次代の戦士とのたもうていた。承知しなくては私の可愛いファルケ・キン
 トを巻き込むと言うからな、泣く泣く承知しておいたぞ。君の代わりに」


「てッ……てめ! 勝手なマネを!!」


冗談じゃない、と澪が立ち上がる。冗談ではない、とハーロックは穏やかに切り返した。


「そもそもは君が馬鹿な声色で事態を混乱に陥れようとしたのが原因だろう。
 確かにあの電話を受け取ったとき、私はウォーリアス・澪であったし、君 
 は謎の愛人フェルナンデスくんだった。愛人が私の意思決定に反論するお
 つもりかね。君の代役を最大限演じてみせた──この私に」


ハーロックは腰に手を当て、からかうように澪の顎に指をかけた。「うぅぅ」とこめかみに汗を浮かべて澪が2歩引く。


「あ、アレはだな…俺なりに会話を引き伸ばそうと考えた結果であってだな、
 実際伸びたろ? 上手くいったろ?」


「向こうもスピーカーをつけてこちらの様子を窺ってたみたいだったからな。
 下手をすると零くん達に筒抜けだったかもしれないぞ。あのやり取り」


あの純真そうな零少年のことだ。父の馬鹿さ加減と異常性癖に絶望&失望したに違いない。可哀想に、とハーロックは他人事のように同情する。


「僕フェルナンデス〜っていうのがか? それくらいならいつもやってンぞ。
 うちに電話してくる奴にサービスな。ま、俺が出ること滅多にねぇけど」


「不愉快なサービスをするものだ」


ハーロックは腕を組み、ソファにゆったりと身を沈めた。

「しかし、君が愛人などと言うものだから、辻褄合わせに苦労したぞ。君が
 男の愛人を囲っていることになってしまったからな。上手く誤魔化しては
 おいたが……このことで君と零くんの父子関係に皹でも入ったら申し訳な
 いが」


「──申し訳ないようなコト言ったのか……お前」


どすん、と傍らに座り、澪がソファの背もたれに後頭部を乗せて天井を仰ぐ。
暫く何事かを考えるかのように沈黙すると、「まぁ良いんじゃねぇの」と珍しく表情を堅くして呟いた。


「どうせ、皹が入るほどの関係でもねぇだろ。アイツ、俺のこと嫌いだし」


「?」


ハーロックは身を乗り出す。十四郎の溜息。時夫の微苦笑。アーサーは、ブラウンの瞳をことさら大きく見開いて、所在無さげに指を組んでいた。


「澪、何ということを。この世に自分の父親を厭うような息子がいるものか。
 特に、零くんは真面目で素直な良い少年ではないか」


「真面目で素直だから嫌なんだろ。たまの休暇で家に帰ってもアイツ殆ど
 部屋から出てこねぇし。だからといって窓から侵入すると、何か泣きそ
 うな困ったような顔してやがるし。土産にカブトムシ持って来てやった
 ら、こっそり森に逃がしてやがるし。俺と目ぇ合わせねぇし、何言って
 も要領得ねぇし。俯きがちだし、すぐ読書に逃避しやがるし。今日だって
 一緒に来るかって誘った一瞬は嬉しそうな面してたけど、あっという間に
 この世の終わりみたいな顔になってたし」


「それは…君が非常識だから」


しかも鈍感だ。ハーロックは嘆息する。この分だと零少年の方も色々と誤解しているかもしれない。容姿がこれだけ似ているのに、彼らの性質はまるで反対だ。


「非常識って言われてもな、これが俺のスタンダードなんだよ。だから良い
 んだ。別に、誰にどう思われていようとな! 出かけるんだろ。時夫、
 とっとと着替えちまおうぜ」


「えぇ、こういうこともあろうかと、ばっちり用意は出来ていますよ。ハー
 ロック、ここで着替えても?」


「あ、あぁ。いや、テーラが来るかもしれないからな。適当に空いてる部屋
 を使ってくれ。私の書斎を使ってくれても構わないが」


「はいはい。それじゃあ、お借りしますよ。アーサーくんもいらっしゃい。
 零さんの装備を貸して差し上げましょう。どうせ、付いてくるつもりで
 しょう?」


「は、はい! お願いします!!」


びっと姿勢を正して、アーサーが時夫に招かれる。3人が去って、リビングには十四郎とハーロックだけが残された。


「──全く、澪は捻くれ者だな。初対面の私にさえ、零くんはあのように内
 気で心根の歪んだところの無いように見えるのに。どうして、自分を嫌っ
 ているなどと」


「おや、あの童がお前には内気な少年に見えたかね」


心底楽しそうに、十四郎はハーロックを見上げる。


「俺があの童を見たときは──ハーロック、お前のジュニア相手に本物の
 殺気を放っておったど。大層俗な言い方をするのなら、父親の愛情を
 一身に受けて育ったジュニアへの、嫉妬……自分の父親への苛立ち、そし
 て、それ以上の愛情が入り混じった大層複雑な殺気を、ほんの一瞬だった
 がな。俺が割って入らなかったら、取っ組み合いの殺し合いだ。そうなっ
 たらお前のジュニアも引くまいよ?」


「そんな…まさか」


「人の心は氷山のようなものだ。見えているのはほんの一角。これは偉大な
 心理学の始祖、ジグムント・フロイトの言葉だが」


「研究者の君が彼のような哲学者の言葉を?」


意外だ。誰よりも冷酷無情な14番目の“エルダ”。彼にとっては数字こそが、そして、それに裏付けられた理論こそが真実のはず。ハーロックは少し皮肉を込めて、傍らによじ登ってくる親友を見つめる。


「ふん、どのようなことでも基礎が最も真理をついているものだ。基礎を疎
かにして馬鹿にするものは大成せん。確かにフロイトは後年自分を哲学者
であったとのたもうておるがな──…」


ちょこん、と座って、十四郎が足を伸ばす。


「──俺が見た零は間違いなく澪の息子だ。澪の中にあった、いや、今でも
 存在する自分の血脈への憎しみ、愛情。『家』そのものを憎む気持ちと、
 誰よりも自由を欲しているはずのアイツが空を憎む気持ちとその狭間に
 あるジレンマ。少々違うが、零の中にもそのような気持ちが確かにある!
 自分を把握しない澪への苛立ちと憎しみ。自分には把握しきれない父への
 尊敬の念と愛情が、交互にあの童の胸を焼くのだろう。昔は理解出来な
 かったが、今は少し理解出来るのだ」


「君が……愛憎の気持ちに共感を示すとは」


ハーロックは、気付かれぬよう指を組んだ。昔の、2人でデスシャドウに
乗って宇宙を駆け回っていた頃には、到底なかった言葉ばかりだ。
「なーにか」と、十四郎が無機物的な笑みを浮かべる。


「これは共感ではない。単なる結論に過ぎないのだ。人は皆、己の中に主観
 というフィルターを持っておる。それがある限り真実の共感など存在せん
 のだ。だが、面白いどハーロック」


「面白い、とは?」


「俺の余命はあと4年ほどだがな、この身が衰えて、わかったことが色々と
 あるのだ。例えば、今までは非論理的な思考・理論を理解することが俺に
 は困難あったのだが、近は、少しづつではあるが、理解が可能になって
 きたように思う。やはり一つの機能が後退すると、また別の機能に発達が
 見られるようになる。上手く出来ているだろう? 人体は」


ハーロックは無言のままグラスを引き寄せて(澪の頭をぶん殴った)ブランデーを注いだ。


「あまり…君の口から余命の話はされたくないものだな」


「ふん、事実が事実としてあるだけだ。仕方あるまい。どうにもならんこと
 に対して口を噤んでいれば事実が変わるということはない。ハーロックよ、
 そんな顔をするな。十二分に楽しかったろう?」


小さな手がそっと頬を撫でてくれる。ハーロックは見上げてくる親友の頭を抱き寄せ、ほつれて小枝の絡んだ髪を梳いた。タイタンの砂に弄られた、乾いて光沢の無い薄栗色の髪。


「──今でも、楽しいさ。友人を招いた楽しいクリスマスの晩に、子供達の
 誘拐事件だ。また、昔のように澪や君の暴れ回る姿が見られそうだね」


「暴れるとも。どうせ俺達が一同に会したのだ。ただ時間が過ぎていくわけ
 があるまいよ。どうやらあの童共も同様の様子。ふむ、トラブルに巻き込
 まれるのにも一種の才能が必要なのだな」


十四郎はハーロックからグラスを受け取り、分析するように顎を擦った。
ハーロックはその頬に触れ、優しく微笑む。


「全く…こんな時にまで考えごとか? 君らしいと言えば君らしいが」


「ハーロックよ、これは俺の性分なのだ。それは息子が誘拐されようとされ
 まいと変わることはない」


「けれど、先程は心配している様子だった」


「弥生がな。俺は彼女とつがいになっておるのだ。伴侶の憂慮を取り除くの
 も夫の役目だ。もうそろそろ意識を取り戻しただろうか。行ってみなくて
 は」


ブランデーを一口飲んで、立ち上がる。ハーロックも立ち上がり、暖炉の傍に置いてあった帽子を取り上げてやると、中で雛が眠っていた。


「これは…君とトチローくんが森で?」


「うむ。生まれたてで丸裸なのだ。いかに砂漠の過酷な環境で生きるトリと
 いってもまだ雛だからな。温かくしてやらねばならん。まぁ、弥生に世話
 を任せておけば良かろうよ」


「あぁ──」


十四郎に帽子を渡してやる。「にしししし」と肩を震わせて、十四郎はいそしそと自分の頭より1つ分上にあるドアノブに手をかけた。妻の様子を見に行くのだろう。「そういえば」と、ハーロックはついつい彼を引き止める。



「そういえば──大山。君は…良いのか? 子供達を奪還しに行くのに、
 着替えや準備は」


「なーにか。パンツの替えすら持って来ておらんわ」


「………そうか」


相変わらず、なんと男臭いことか。しかし防寒具くらいは用意してやらなくては。

ハーロックは、リビングで1人溜息をついた。




★★★


ぷちっ…。


何かが可愛らしく潰れるたような音がした。監禁されてから約1時間──。敵の正体を知るための手がかりはなかろうかと部屋の中をあちこちひっくり返している最中のことだ。飾り皿を裏返していた俺と、古い衣装箱の中に上体を突っ込んでいたハーロックは顔を合わせる。


「なに、脾臓でもハレツしたの? 零」


ハーロックが箱の中にあったスカーフを広げながら、不思議そうな顔をする。皿をひっくり返しているだけなのに何故脾臓が破裂するのか。俺は眉を顰めて彼を見つめた。


「君こそ…肺でも爆発したのか」



くちっ。



再び、可愛らしくナニカが弾けたような音。どうやら音の元は俺達ではなく、
俺達の背後でしているようだ。「トチロー!」とハーロックが慌てた様子で立ち上がる。


「どうしたトチロー。今のくしゃみか? 俺達が部屋中ひっくり返したから
 ……埃っぽかった?」


小走りでソファに向かい、床に膝をついてコートに包まる敏郎を撫でる。俺は、ソファの背ごしに「大丈夫か?」と敏郎を見下ろした。


「そんなに乱雑な動きをした憶えはないが」


「ぷちゅ」


敏郎がもぞもぞとコートの中から顔を出す。──鼻水が出ていた。


「ありゃあトチロー、水っ洟垂れてるよ。これは…アレかな、零アレル
 ギー?」


「俺は杉花粉かハウスダストか。敏郎、ひょっとして──寒いのか」


「ん」


親友の差し伸べた手にしがみ付いて収まる敏郎。ハーロックは脱ぎ捨ててあった自分のコートを手繰り寄せながらソファに腰掛ける。


「う〜ん、寒いかなぁ。俺、ずっとこっちで育ってるから冬の室内なんて
 こんなモンだと思うけど。あぁ、でもここエアコン無いか」


「環境に関しては俺も同じようなものだと思うけど…敏郎は確かタイタンの
 生まれって話だろ。あそこは気候が暖かいらしいから」


「寒い」


見れば敏郎はコートを羽織ってなお震えている。やはり小さいと熱伝導が早いのだろうか。俺は「可哀想に」とソファに凭れて肘をついた。


「ハーロック、君のコートも貸してやれよ。平気なんだろ」


「元よりそのつもりさ。ほら、トチロー俺のコートも着な。それから、
 草履を脱いで、足を見せて。ずっと裸足なんだもの。靴下くらい履かなく
 ちゃ」


ハーロックは膝に抱き上げた敏郎の小さな足を、慈愛深く擦ってやる。そのくせ、俺には「零、暖炉に火」といかにもぞんざいな指示を出すのだ。短い付き合いではあるが、何となくこのハーロックという男の特性が理解出来た。
こいつ──敏郎のことしか考えていない。


「あ、あぁ。今点けようと思っていたさ。今」


仕方なく俺はローテーブルに置かれていた燭台を取り上げて、暖炉の中に組み上げられている薪の中に突っ込んだ。しかし、一向に燃え上がる気配がない。しまいには、ぶすぶすぶす…と音を立てて、妙な臭いの煙が出てくる。

茶色い煙だ。目に染みる。思わず咳き込んだ俺の背後で、ハーロックが勢い良く立ち上がった。


「臭ッ!! 零! 零ゼロ、何やってんだよ」


「な、何って──俺は火を。生木だったのかな、これ」


「薪にいきなり火を点けようったって点くもんか! 君の家には暖炉が
 無いのか? 火を点けたことない?」


「暖炉は…あるけど、火を入れるのはいつもメイドか執事が」


「あぁもう! お坊ちゃまだなぁ君は!!」


どいて、とハーロックは俺を押し退け、持っていたスカーフを丸めて薪の中に突っ込んだ。それから、うろうろと暖炉の周辺を歩き回って、何やら細かな枝の入った籠を見つけてくる。


「これは、こうして──細かな火種をだね…良いよ零。見てなくて良いから
 トチローの相手をしてあげて。せめて寒さが紛れるように」


「あぁ──…うん」


そのまま背を向けられてしまっては反論も出来ない。俺は仕方なく目を擦り、敏郎の傍らに腰掛けた。


「えぇっと、何か、話をしようか。楽しい話を」


「楽しい話?」


「うん。ほら、コートを着て。俺、結構本なんか読んでるからおとぎ話は
 得意だよ。眠るときには、そういうお話をするんだろう?」


「おとぎ話」


敏郎が身を乗り出してくる。俺は彼が暖かいように抱き寄せてやって、何の話をしようかと考えた。なるべく楽しくて──ハッピーエンドなお話が良い。


「そうだなぁ、男が聞いて楽しい話ったら……ヘンゼルとグレーテルなんか
 どうだろう? お姫様も王子様も出てこないけど、俺達みたいな年頃の子
 供が主人公だよ」


「ん」


コートの襟を合わせて、敏郎がちょこんと座り直す。俺は、テーブルの上に用意されている料理からデザートを幾つか選んで皿に盛り付けた。


「さぁ、お菓子なんか食べながら聞くと良いよ。甘いものはエネルギーにな
 るからね。身体が温まる」


「ん」


敏郎は素直にプティングを食べ始めた。口元に付いた食べかすを拭ってやりながら、俺はゆっくりと話し始める。


「そう──昔々、ある大きな大きな森の入り口に、樵の家族が住んでいま
 した。お母さんはずっと昔に病気で亡くなってしまっていたけれど、お父
 さんの樵はとてもとても働き者で、兄妹のヘンゼルとグレーテルはとても
 とても仲良しでした。貧乏で、年に一度のクリスマスにも贅沢出来なかっ
 たけれど、3人は充分幸せだったのです。ところが──」


「あ、点いた点いた。なになに? ヘンゼルとグレーテル? 俺も聞きたい」


見事暖炉に赤々とした火を点けて、ハーロックがソファに戻ってきた。俺は小さく頷いて話を続ける。


「ところが、お父さんが町から新しいお母さんを連れてきた日から、3人の
 生活は一変してしまいました。貧しかった家がますます貧しくなり、あっ
 という間に3度の食事にも困るようになったのです。お父さんも、ヘンゼ
 ルとグレーテルも、それは家族が増えたからだと我慢してことさら働いた
 り手伝いをしましたが、生活は少しも楽になりません。何故なら、この継
 母はとても意地悪な性格で、自分が贅沢をしたいばっかりに、家にあるお
 金をこっそりと隠してしまっていたからです」


「陰惨だね。あっ、クリュグ発見」


ハーロックが身を乗り出し、シャンパンのボトルを取り上げる。


「おまけに、この邪悪な継母は、自分が産んだでもないヘンゼルとグレーテ
 ルを大層憎み、嫌っていました。そこで、お父さんに「もう食料がない」
 と嘘をつき、子供達を捨ててくるように唆したのです」


しゅぽん、と景気良くコルクが飛んだ。ハーロックは瓶の口から直接味見をして嬉しそうにグラスを用意し始める。


「うーん、飲み頃だ。零、シャンパン飲む? クリスマスだものなぁ。少し
 は景気をつけないと」


「…いいよ、別に。お父さんは最初は嫌がりましたが、家の食料が尽きかけ
 ているとなっては自分達も死活問題。仕方なく、子供達に家にあった最後
 のパンを持たせて森へと連れ出します」


「チーズ欲しいなぁ。ソーセージも好きだけど、やっぱり肴が一品だけじゃ
 寂しいもの。仕方ない、勿体ないけどクラッカーにキャビアを乗せちまお
 う」


「……森は深く、昼なお暗く、置き去りにされてしまったヘンゼルとグレー
 テルには戻るすべがありません。お兄さんのヘンゼルが知恵を巡らせて道
 にパン屑を巻いておいたのですが、それも小鳥達に食べられてしまいまし
 た。日が暮れて──辺りは完璧な闇に包まれます」


「あはは、何か俺達みたいだね」


1人陽気にシャンパンを呷りながら、ハーロックが笑う。──未成年だろ、お前、という言葉を俺はぐっと呑み込んだ。どうせ、そんなの通じないのだ。


「カンテラの灯も持たず、どこへ行けば良いのかもわからずひたすら歩き続
 けるヘンゼルとグレーテル。途方に暮れた2人の前に、突如明るい光と甘
 い香りが。2人が喜んでその光の元へと駆け出すと、やがて、一件の小さ
 な家が見えました。それも、ただの家ではありません。タイルの1つ、柱
 の1本までお菓子で出来た、それはお菓子の家だったのです」


「お菓子」


敏郎が、プティングやクッキーの乗った皿を差し出してきた。ハーロックの生意気さや嗜好に比べて何と愛くるしく微笑ましいことだろう。俺ははんなりと笑って「そうだよ」と彼の頭を撫でてやる。


「それはそれは夢のようなお菓子の家だ。窓ガラスはキャンディーで、扉は
 全てチョコレート。壁はバターの香りが漂う大きな大きなビスケット」


「辛党には地獄だね」


あっという間に1本飲み干し、「物足りないなぁ」と呟くハーロック。酔っ払いは黙ってろ、と俺は敏郎を庇うように抱き上げた。


「全く…君、6歳なんだろ。もっとそれっぽく振舞えよ。いくら置いてあっ
 たからって、普通飲まないぞシャンパンなんか」


「家では結構普通に飲むけどなぁって、年齢は関係ないだろ。ヨケーなお世
 話だよ零。君だって、実は結構飲むんだろ」


「飲まないよ。いいから黙っててくれよ。物語はこれから佳境なんだから。
 そう、敏郎、ヘンゼルとグレーテルを快く招き入れてくれたのは、優しそ
 うなお婆さんでした。道に迷った2人に優しい言葉をかけてくれて、甘い
 ココアやクッキーをご馳走してくれたのです」


「何だか、ますます俺達みたいだねぇ。敵ながらゲオルグも味な持て成しを
 してくれるものさ」


「ところが──そのお婆さんの正体は魔女でした」


ハーロックの言葉に、俺は、はた、と気付く。そういえば、この話ここまでは俺達の状況にぴたりと一致する。こつこつこつ、と強化硝子さえすり抜けて、聞こえてくるのは重力ブーツの足音。


「それで、その魔女のお婆さんは?」


ハーロックが、酒気で頬を赤らめながら俺の顔を覗き込む。


「お、お婆さんは」


ぴた、と合金製の扉の前で止まる足音。「ゲオルグかな」とハーロックが腰を上げる。


「お婆さんは?」


敏郎が俺の膝に手を置いて身を乗り出した。「お、お婆さんは」と俺は続ける。


「2人に優しく振舞って見せて──」


がちゃ、と外側から鍵の開けられる音。「よぅお坊ちゃん達」とすっかり武装し直したゲオルグが厳つい笑顔で現れた。「楽しんでるかい?」と打ち解けた様子でハーロックの肩を叩く。


「うん、楽しいよ。シャンパンもあったし。丁度今、零がおとぎ話なんか
 してくれてるところ。それで、零? お婆さんは何だっけ」


「お、お婆さんは2人に優しく振舞って見せて。でも、お婆さんの正体は、
 実は悪い魔女でした」


ごく、と俺は息を呑んでゲオルグの格好を観察する。防護服に拳には格闘用の強化布グローブ。他には銃もサーベルも吊っていない。明らかに、先程の軍装とは趣きを異なっている。


「と、ところでその格好は」


「あぁ? これかい中佐のお坊ちゃん。これは、決闘の準備さ」


「決闘!?」


どこか得意げな、誇らしげなゲオルグ。ハーロックは驚いたように声を上げる。


「決闘…って、お父さまと?! それはよしなよゲオルグ。ゲオルグがいくら
 格闘技強くたって、丸腰じゃ銃の達人のお父さまには」


「いいや、これで良いのさ。お父様はお父様でも、俺はウォーリアス・澪中
 佐に用があるんだからな。そう、10年ほど前の宇宙大戦のとき、素手で3
 隻の敵戦闘艦を叩き落したといわれる伝説の戦士、“ラスト・ウォーリア・
 レイ”にな」


「ラスト・ウォーリア・レイ──…!!」


敏郎が、呟く。ハーロックも唖然とした表情のまま固まっていた。「お前さんらが来てくれて助かったぜ」とゲオルグが口元に怖い笑みを浮かべる。


「……実の息子と旧友の息子が人質なら、いくら面倒臭がりの中佐だって
 出てこざるを得ねぇからな。まぁ、出てこなきゃ──なぁ?」



「──……ッ!!」



魔女は、2人に優しく見せかけておいて、



本当は、2人とも食べてしまうつもりだったのです。




本当は怖いおとぎ話。この話のラストはどうなるんだっけ。あぁ、確か2人は魔女を倒して家に帰る──…。


……帰らなかったんだっけか?



たとえ帰っても、お父さんは優しく2人を迎え入れてくれたのだったろうか。




一度は森に捨てた子供を? 要らない子供を? 




冷たい汗が、背中に滲んだ。
















●クリュグってシャンパンだったっけ……?



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