Happy Days・5
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★★★ 少年は1人、森の中をさ迷っていた。 と、いうか、思い切り迷っていた。 既に友人と落ち合うはずだった時間は2時間以上も過ぎており、辺りは日も落ちて真っ暗である。携帯ライトを持ってきて良かった、と少年は安堵する。 冬の風は、コートの中にまで染みてきて、寒い。少年はもつれた黄灰色の髪を手櫛で整え、深く、フードを被った。 「……参った。この森やっぱり深いや」 少年を知る者は、すべからく彼を『方向音痴』と定義する。少年は冒険心旺盛と言ってもらいたいのだが、9つ年上の兄や、生まれた頃から一緒にいる親友までもが首を横に振る。はっきり言って失敬な奴らだと思っていた。 ──そう、今日までは。 「わかった、認めるよ。方向音痴だって」 呟いてみても、1人。空気が冷たく、いやに澄んできた。雪が降るかもしれない。生来の器質上(つまりは方向音痴だということだ)、道にはよく迷うので野宿には慣れているが、この季節、おまけに雪が降るとなると朝まで生きている自信が無い。「送ってやろうか」と言ってくれた兄を拒絶して出てきたことを少年が深く深く後悔し、反省したその時。 ちか、と数メートル先で何かがライトに反射してきらめいた。 「──ハーロック?」 もしや親友が何か道しるべを用意してくれたのかと駆け寄って、少年は愕然とした。 巨木に刺さった小さなナイフ。銀色の刀身がライトの光を反射したのだ。 そう、親友ハーロックが護身用に身に着けている短剣が。 慌てて周囲をライトで照らし回ってみると、落ち葉を踏み荒らす複数の足跡。少量だが紛れもない血痕。そして、血に濡れた親友のナイフがもう1本。 「──これは!!」 指紋がつかないよう手袋で注意深くナイフを包み、少年は親友の迎えがいつになっても現れない理由を漠然と識る。──何が、あったのだ。 「た、大変だ。早くグレート・ハーロックに知らせなくちゃ」 慌てふためいて駆け出してはみるものの、方向はまるでわからないままだ。 何度か同じ木にぶつかって、少年は己の性を呪う。どうして大事なときに道に迷ってなんかいるのだ!! 「畜生…畜生、ごめんな。ハーロック、俺が素直に兄貴の車に乗ってたら」 真っ暗な森をひたすら歩き、更に1時間ほどが経過して。少年はがっくりと近くにあった枯れ巨木の根元に腰を下ろした。 「とにかく、とにかくだ。落ち着け。落ち着けばきっと正しい道が見えてく るはず……。何があったって、アイツが簡単にやられるわけないよ。ハー ロックの家は森の東だから──そうだ! 月と反対の方向に行けば」 「なーにか。そんなんでは永久に迷うばかりだど。馬鹿め」 不意に、頭上から呑気なような、無感情のような不思議な声が降ってくる。少年は、びくりと肩をすくませ、慌ててライトを上方に向けた。長い幹の上、葉がすっかりと落ちて色褪せて、それでも逞しく突き出た枝の1本に、何やら小さな人影が見える。 大きな帽子、長いマント、きらりとライトを反射する大きな目。 「お前、アーサーだな。ジュニアから話は聞いとるど」 「…──キ、キムジナー!!?」 「誰が旧オキナワ独自の妖怪でガジュマルの木の精霊的存在か。つーか この木は樫の木でガジュマルとは違うものだ。もっとよく見んかい」 淡々と言い放ち、キムジナー、否、その小さな人は音も無く少年の目の前に降り立った。大きな目玉かと思われたそれは、ただの大きな眼鏡であった。 少年は全身の力を抜き、「それはすみません」と頭を掻いた。 「あの…確かに俺、星野・アーサー・巧ですけど。貴方は? グレート・ ハーロックのお知り合いなのですか」 「ん。まぁ、知り合いというか親友の類だ。今夜はパーティがあるというの でな呼ばれたのだ。もう戻らないと夕飯だが、生まれたばかりのトリが腹 を空かせてぴーぴー鳴く。だから、木の中で越冬する生きの良い虫を溜め 取りしようと」 「ちょ、ちょっと、待って。話が全然見えません」 「なーにか。物分りの悪い童だな」 勝手に妙な話をしておいて、小さな人は唇を尖らせる。身長から同世代か年下かと思ったが、話し方が老成していて落ち着いている。見た目よりもずっと大人の人だ。少年──アーサーは深呼吸をして「それどころじゃないんです」と身を乗り出した。 「虫を採っていたということは、迷っているわけじゃないんですよね。 それじゃあ、一刻も早く屋敷に戻らないと。俺、大変なものを見つけた んだ!!」 「虫か? タマムシ、ゾウムシ、ナガクチキムシ。大きな蛾の幼虫なども ありがたいのだ」 「虫じゃないって。手を出されても困るって。そうではなくて、これを」 「お腹が空いたな。トリも腹ペコだが俺も空いたのだ」 「……俺の非常食をあげる。あげるから、俺の話を聞いて下さい!!」 なけなしのカロリークッキーを渡し、アーサーは手袋に包んだナイフを彼に見せた。小さな人はマントの端で何度か眼鏡のレンズを拭い、ライトの下、 血のついたナイフを確認する。 「これを──どこで」 「えぇっと…どこだろう。あっちの方です。大きな木にもう1本刺さって て。周りには落ち葉を沢山の人が踏み荒らしたあとが。軍靴みたいな大き くてゴツい足跡が5つと、小さな革靴が2つ。それと、昔のワラジみたい な小さな足跡が入り乱れて」 「ジュニアと零と敏郎か。銃声は聞こえなんだし、この森から人間の死臭は 全くしない。誘拐だな。そう焦ることはない。誘拐なら、屋敷の方に連絡 がいっとるかもしれんしな」 「そんな呑気な」 「なに、俺やハーロックや澪のせがれなら、そう簡単にはくたばるまいよ。 お前も、そう思っているから安心して遭難しかけとる」 小さな人が「にしし」と笑った。別に安心した上で遭難しかけているわけではない、とアーサーは心底思う。 「ハーロックが簡単にくたばるわけないのは俺が1番よく知ってるけどね。 でも、やっぱり心配だよ。オジさん、虫取り手伝うから早く俺を屋敷に 連れて行って下さい」 「うむ。手伝いはいいのだ。もう沢山集まった」 ごそごそと、マントの下から出した布袋を開けて見せてくれる。覗き込むと、 袋の中には生きた虫達が蠢いてみっしりと──。 「──グロ!!! っていうか夢に出るよ!! これ!」 「なーにか。男たるもの虫の20匹や30匹でグロいとか夢に出るとか慄いて はイカン。しかもこれはトリの飯なのだ。なぁ、トリさん」 「ぴぃ」 小さな人の帽子の中から、更に小さな丸裸の雛が顔を出した。長いクチバシを大きく開けて、「ぴぃぴぃ」と彼の額を突く。 「わかったわかった。道すがら食べさせてやるのだ。ほら、行くど童。 俺を見失ってはイカンのである」 「はい。わかりました。あの──」 ──俺、この人の名前も知らないや。でも。 この人は、敵じゃない。動物に優しくする人は悪人じゃない。それがアーサーの信条である。 目的地に辿り着くのに余所見はするな、知らない人についていくなという兄の格言を、アーサーはそっと頭の中で打ち消した。 ★★★ 「大山! 帰ったのか」 開口一番、グレート・ハーロックは両手を広げて小さな親友を抱き締めた。 ──冷たい。夜気ですっかり体温を奪われてしまっている。ハーロックは十四郎の手を取って、暖炉の前まで導いてやった。 「さぁ、ここに座って。今ココアなど持って来させよう」 「ココアなどよりも酒が良い」 帽子を脱ぎ、自分よりも先に鳥の雛を暖めてやる優しい親友。何やらがさごそと音のする袋を持っているのが気になったが、ハーロックはにっこりと微笑んだ。 「それでは酒を。澪、グラスを取ってくれ」 「……良いけどよ。このガキ、誰?」 澪が玄関の前で所在無さげに立ち尽くしている少年を指差した。アッシュグレーの髪、大きなブラウンの瞳を持ちながら、どことなく東洋的な顔立ちをした痩身の少年。フードつきのコートを脱ぎもせず、困ったようにハーロックを見つめている。 「アーサーくん! ようこそ。そんなところにいては寒いだろう。もっとこっ ちの暖かい方へ」 「いえ…俺はここで。実は、俺のせいで大変なことに」 少年は肩を震わせて、「これを」とハーロックに手袋を差し出した。別段、変わったところのない毛糸の手袋。だが、僅かに鼻孔を掠める血臭。ハーロックは手袋を受け取って中身を確かめる。 「──これは。ファルケ・キントの」 「そうです。俺が、俺が待ち合わせに遅れたから…ハーロックが!」 アーサーが叫ぶ。大きな瞳に涙を溜めて、唇をぎゅっと噛み締めた。「誘拐なのだ」と十四郎がとことこと寄ってきた。「別にお前のせいではなかろうよ」とアーサーの手を取って引っ張る。 「本当にジュニア共が目的なのだったら、お前が遅れようが遅れまいが時間 を調整して攫っただろうし、そうでないのなら相手の目的は俺達の誰か。 それなら、責任は警戒を怠ってガキ共から目を離した俺達にある! そう だな、ハーロック」 「勿論。特にこの森は我が家の所有物。それならばこの森で起きたことには 全て当代である私に責任がある。アーサーくん、このナイフをよく発見し てくれたね。これはきっと、あの子が君に残したメッセージ。君が発見し てくれなければ、もっと大変なことになっていたかもしれない」 膝を折り、すっかり冷たくなっているアーサーの頬を撫でてやる。アーサーは感極まったように、ぼろ、と一粒だけ涙を零した。 「ぐ、グレート・ハーロック……!! 俺──…」 「ファルケ・キントは強い子だ。その友であるトチローくんも零くんも、 幼い身体に信じられないほどのパワーを秘めている。無論、君も。 寒くて不安な思いをしただろう? もう大丈夫、心配はいらない。こちら に来て、温まりなさい」 「はい! お、俺も……俺もハーロック達を助けられるように頑張ります。 きっと──命に代えても!!」 「ガキが命に代えてもなんて口にするなよ。全く、そういう畏まった台詞は な、少なくてもジュニアハイを卒業してからにしな」 澪が立ち上がってアーサーの首根っこを掴まえる。時夫が開けたソファーの上に少年を放り投げ、大皿に盛ってあったチョコレートを彼の掌にぶちまけた。 「ほれ、ガキはチョコ喰って喜んでれば良いんだよ! セキニンとか、イノ チがどうとかなんて、大人が考えればいいことなんだよ」 「で、でも友達が苦しんでるかもしれないのに」 「どうせ相手がアクション起こしてくるまでは何も出来やしないさ。ふん、 そういうときにはな、喰いたいモン喰って寝てるしかない。お前も男なら どーんと構えな。どーんとよ」 「は…はい。そうします!! チョコ食べます!!」 アーサーはそう言って思い切りチョコレートを頬張り始めた。寒さと緊張で白くなっていた頬に赤味が差し始める。澪の不器用な心遣いだ。4人の中で1番不遜のように思える彼が、本当は1番弱者に対する思いやりがあることをハーロックは知っている。 時夫が「失礼」と携帯電話片手に腰を上げた。 「ちょっと家に電話します。貴方方のお子さんが総ざらいなら、うちの子だっ て危ないかもしれませんから。──あぁ、もしもし俺です。時夫ですよ。 静夫はどうしてます? え? 寝てる。そうですか。それは良かった。 暫く家から出さないようにして下さいね。え? 何でって……そんなの 巻き込まれるのはごめんだからに決まってるじゃないですか。変人の集団 が巻き起こしたような厄介ごとに。話が見えない? いつものことでしょ う。本当に貴女はうっかりなんだから……えぇ、はいはい。愛してますよ。 勿論。それじゃあ」 「この──薄情者!!!」 時夫が通話を切った途端、3人分の父の拳が飛んだ。がつん、という鈍い音 と共に(古典的ではあるが)時夫の目から火花が飛び散る。 「痛ったいなぁ。もう、何をするんですか。ハーロックまで、乱暴な」 「うるせぇよこの人でなし!! 俺は悲しいぞ!」 「自分ちさえ良ければ良いのか! そんな奴だとは思っておったど!!」 「まぁまぁ、澪、大山。一発殴ったからもう許して差し上げようではないか」 なおも拳を振り上げる2人を、ハーロックは優しく押し留めた。「アンタの拳 が1番痛かったですけどね」と時夫がむくれる。 「大体、自分の家の心配して何が悪いんですか。言っておきますけどうちは 平々凡々たる中流家庭ですからね。営利誘拐にしろ何にしろ、巻き込まれ たら生きて帰れませんよ。本ッ当にアンタ達とは違うんですから」 「わかっているさ、時夫。しかし、あの子達を取り戻す協力はしてくれるの だろう? 君の情報収集能力はうちの副長を上回るからね」 「そういえば副長さんをお見かけしていませんね。招待しなかったので すか?」 「まさか。久しぶりの長期停泊なのでね。家族を連れて温泉に行ったよ。 そういえば──…彼の方は大丈夫なのかな」 電話してみよう、とハーロックはリビングの隅の電話に向かう。 背後で十四郎が「いらんわい」と溜息をついた。 「なーにか。海賊の長の子を攫っておいて、副長の子まで狙う理由がどこに あるか。こら時夫。よもやお前さん、関係ないからといってこのまま無関 心を決め込むつもりではありますまいな」 「そんなことしたら減給してやるからな。バーカ」 「そうだど。そんなことしたら恐ろしいことになるど。バーカ」 アカンベーして尻を叩く澪と十四郎。ソファでアーサーが目を丸くしていた。 時夫が、じっとりと旧友達を睨む。 「……アンタ達、どこまで人を人でなし扱いしたら気が済むんですか。手伝 いますよ。他のガキどもはともかく、零さんは親に似ず繊細ですからね。 一刻も早く救出しないと、心に深い傷を残しそうで」 「あぁ、あいつオタク臭いからなぁ。もう死んでるかもなぁ」 澪がしみじみと腕を組んだ。オタク臭いと死ぬのか、とハーロックは苦笑する。 「相変わらず、君は素直ではないな。本当は心配なのだろう?」 「馬鹿言ってんじゃねぇよ。俺は情けないぜハーロック。あいつ、1番 年上のくせにチビ共もろとも攫われやがって。根性が足りねぇ」 「いいえ、根性が足りないのはファルケも同じ」 「!!」 一斉に、リビングにいた面々の視界が移動した。音も無くリビングの扉を開けて立っているのは、グレート・ハーロックの妻、テーラ・O・ハーロック。 背中まで揺れる長い赤褐色の髪を除けば、その立ち姿はまるで二次成長前の少年にも見える。女性にしては上背もあり、何より、ドレスではなく全身にぴったりとフィットするスーツを身に着けているのが、彼女の性を曖昧にしていた。土色の瞳は大きく、眼差しは凛として厳しい。 その姿は、母というよりも女戦士に近しいのだ。美しいが、その美しさは脆弱な花のそれではなく、野生に住む豹などを思わせる。ヒールの高いブーツの音も規則正しく、テーラはハーロックの前に立った。 「貴方、晩餐の支度が整いました。まずはごゆるりとお食事なさい」 「テーラ、話はどこまで聞いていたのだ」 「澪中佐のお言葉あたりからですわ。「オタク臭いから死ぬかも」と」 ちらり、とテーラの視線が移動する。「ひぇ」と澪が肩をすくめた。 「相変わらずひやっとするような目つきだなぁテーラ。綺麗なのに勿体無い ぜ」 「生まれたときからこの目つき……。もう変えられませんよ中佐。 相変わらず無縫なご様子。私の夫と共に宇宙を駆け回る決心がおつきです か?」 テーラが微笑む。シャンデリアの輝きを受けて、彼女は女神のように美しかった。けれど、その美貌に嘆息する者は1人としていない。皆、彼女の内に秘めたる恐ろしさを知っているからだ。 「おつきじゃねぇよ。俺は高所恐怖症なの。お空は嫌い。OK?」 「貴方ほどの男が…空を厭うことが不自然ですよ。でも、よろしいですわ。 不完全な方が、輝きを増す宝石もありますもの」 深く頷いて、テーラはハーロックを見つめた。「食事にしよう」とハーロックは頷く。 「どのみち、向こうからの動きを待たねばこちらも動けない。けれど時夫、 大山、今この時期に私達の子を狙うような組織があるのかどうか、調べて くれるね」 「えぇ、了解ですよ。アーサーくん、と仰いましたね。ナイフをこちらに。 血液をDNA鑑定して軍部の内外に該当者がいないか調べましょう」 「10分くらいあれば出来るな。俺もデスシャドウに牙を向いてきた者達の その後の動きを探ろう。ハーロック、ここのパソコンに俺が不在の間の 航海データを落とせるな」 「あぁ、書斎を使ってくれ。その間に前菜を整えさせよう」 ハーロックが示した方向の扉に向かって、時夫と十四郎が何やら専門的な会話をしながら去っていく。「あ、そうだ」と十四郎が不意に足を止めた。 「スマンがこの話、弥生には暫く黙っておいてくれ。あれは強い優しい女 だが、ことに敏郎を溺愛しておる。アイツがこんな異星で誘拐されたなど と知れば意識を失いかねん」 「あぁ、配慮しよう。澪、気をつけてくれ。君は特に迂闊なところがあるか らな。弥生殿の前でトチローくんが攫われたことをうっかり喋ってしまい そうだ」 「そりゃ自覚してっから俺は気をつけるけどよ──あ」 澪が、ハーロックの背後を指差して硬直する。「あ?」とハーロックは疑問符を飛ばして振り向いてみる。 「──……!!!」 テーラの背後、扉の前に控えめに立ちながらも蒼白になっている大山弥生の姿があった。小柄なのでテーラの背が死角となって見えなかったのだ。 砂漠育ちとは思えぬほどの白い肌。やわらかく胸元でカールした淡い栗色のの髪。シックなデザインのナイトドレス姿が、彼女の華奢さを十二分に引き立てている。 小鹿を思わせるような黒い瞳が、不安と焦燥で揺れて今にも零れ落ちそうだった。 「や、弥生…これは」 珍しく、十四郎の声が上ずる。「貴方」と弥生はがっくりとその場に崩れ落ちた。 「あ…貴方。あなた。子供達がどうしたと──どうしたと今グレート・ハー ロックは仰って?」 「大丈夫だ。どうということもない。俺が平気だと言って、今まで平気でな かったことがあったか? どうだ」 十四郎が慌てた様子で妻に駆け寄る。基本的に十四郎は情の無い男だ。叡智の女神“エルダ”の加護を受けたその聡明さゆえに、人間として大切な感情が、ごっそりと抜け落ちている節がある。学生時代はそんな彼の性格に随分と振り回されたものだが、艦を降りて、十四郎にも変化があったようだ。妻の身を案じることは出来るのか、とハーロックは少しだけ寂しくなる。 「弥生、確かに敏郎達は何者かに拉致されたわけだが…すぐにやった奴らを 特定してみせよう。この大山十四郎を信じて、お前は夕飯が冷えないよう に気をつけていれば良い。子供らが帰ったときのためにな」 「えぇ。えぇ、貴方」 弥生の瞳に涙が浮かぶ。ほぅ…と周囲から安堵の息が上がった。誰だって、我が子の身を案じて傷つく女性は見たくないものだ。「大丈夫ですよ」と、 時夫が一際明るく手を挙げた。 「今から犯人に繋がりそうな証拠を分析台にかけますからね。最短10分程度 で見事に割り出して見せましょう。スープが冷める間も与えませんよ」 見事な追い風だ。弥生やテーラの表情にまでも希望の光が差す。後押ししよう、とハーロックは小さく咳払いをした。 「そうとも、ファルケ・キントが残したナイフに付着していた血痕は重要な 証拠になる。十四郎は“エルダ”だし時夫は優秀なマルチ人間だ。この2 人にかかれば10分も──」 「ハーロック、馬鹿!」 澪がどすんとハーロックの腰に肘を入れてくる。はっとして弥生の方を見てみると、彼女は大きな目を見開いて震えていた。 「な…ナイフ。血が……敏郎。と──しろう」 そのままがっくりと仰け反ってしまう。「弥生!」と十四郎がその身を抱き止めた。 「テーラ! すまんがベッドのある部屋に彼女を。それと、念のために鎮静 剤を。目が覚めたら俺がすぐ行くからと伝えてくれ」 「わかりました。手隙の者を呼んで参りましょう。ドクトルにも電話致しま す。貴方方は何の杞憂も無く自分達のなすべきことを全うなさって下さい ませ」 するり、と部屋に入ってきたときと同じように音も無く退室していくテーラ。 澪と時夫が「取り敢えず」と弥生をソファの上に運ぶ。アーサーが彼女にそっと自分のコートをかけてやった。 「繊細な方なんですね……本当に俺が道に迷わなければ」 「いえいえ、君のせいではありませんよ。この場合は」 時夫が優しくアーサーの頭を撫でる。「しかし不思議だ」と澪が弥生の横顔を覗き込んで顎を擦った。 「どうしたら大山みたいな変人にこんな可愛い奥さんが出来るんだよ。アレ か? 惚れ薬とかそういう類のものか?」 「失敬な。ちゃんと恋愛結婚だ。つうか、弥生の方が俺に惚れておるのだ。 花や動物が好きで、血や暴力を厭う優しい女だ。ハーロック!!」 「──…面目次第もない」 親友に睨まれ、ハーロックはしょんぼりと肩を落とした。「意地悪ですよね」と時夫が呟く。それが、誰に向けられたものなのかは定かではないが。 「取り敢えず、俺達は飯にしようぜハーロック。ほら、アーサーもチョコ ばっかじゃなくて肉も喰えよ。今夜はクリスマスだからな。ターキーが 出るぞ。ターキーが」 澪がフォローするように笑い、アーサーの手を取ったその時。 ピピピピピピ……。 彼の懐の衛生携帯が、鳴った。 |
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