花と湯・5




★★★


「偵察しろって言われてもなぁ……」


後頭部を掻きながら、石倉は暗い廊下で一人ごちた。思わず走り出してしまったものの、存在を確認された後で、彼らをマークするのは難しいことだ。冷たい渡り廊下。広い庭に点在する灯籠の明かりが、まるで星図のようにも見える。暫しみとれて、石倉は夜気の寒さに肩を抱いた。


──艦長にもこんな風に感じて欲しいのに。


ハーロック達は大浴場に向かった。さっきまで零達といた浴場。富士山の絵が
描いてあって、ライブラリに所蔵されている20世紀映像の中にある銭湯に
そっくりだと思った。客も少なくて、さすがは“秘湯”と感心したものだ。


「……その少ない客がハーロックの仲間だったとはな……」


気付かなければ良かったのに。ハーロックにも、大山敏郎にもその仲間達にも。
そうすれば、零はゆっくりと休めたのだ。風呂に入り、浴衣の帯を結ぶのに手間取り、そして、風呂上がりにはコーヒー牛乳を飲む。クルー達との卓球。マクラ投げ合戦。2泊三日の骨休み──。


「それが全部パァだ!! あのクソ馬鹿海賊──ッ!!!」


わぁわぁと喚きつつ、それでも足は零の命令通りに大浴場に向かっている。石倉は八つ当たり紛れに肩にかけていたタオルを振り回した。


「せっかく──せっかく、艦長に休暇を取って欲しかったのに。このまま
 宇宙に出ることになったら、また艦長は休み無しだ……!!」


24時間、睡眠時間さえ削って『火龍』の運行に尽くす零。その姿を思い出すだけで、胸が痛く、切なくなる。自分がもっと優秀だったら──そう思う。


──もっと強くて、優秀だったら良かったのだ。零の右腕になれるくらい。
偉大な男の傍らに相応しいくらい。



──せめて、自分にも“エルダ”のような希少価値があれば。



「──…ん……?」


冷たい板を踏んでいた足に、ふと糸のように細く長いものが絡みついてきた。


「なんだ?」


視線を下げて確認すれば、月光の下、それは長く廊下に横たわる人の髪。
光に透かせば限りなく金色に近く、手で影を作ってやれば薄栗色に煌めく。
細い──細い。硝子粒子の糸。稚拙な表現をするのなら、それはまるで絹の
ような。


「綺麗な髪だな──」


思わず石倉は膝をついたまま髪を追う。渡り廊下を滑る長い髪。それは、
髪だけでも十二分に人を魅了する。
辿っていくと、それは欄干の下に降りていた。好奇心と、期待と。石倉は這うようにして、そっと下を覗き込む。

欄干の下──清涼に流れる人工の小川。白い砂州の上に横たわるなお白い肢体。

──女性だ。宿の銘が入った浴衣の裾から伸びる蒼白い脚に、石倉は思わず赤面した。美しい髪に相応しい華奢なライン。小さな肩が、苦しげに震えている。石倉は慌てて身を乗り出した。


「──どうしたんですか? 気分でも?」


怯えさせないように、静かに優しく声をかける。けれど、少女(あまりにも細く未成熟に見えたので)は驚いたように顔を上げ、廊下から身を乗り出す石倉を、大きく澄んだ瞳で映す。

廊下の下、小川の水が灯籠の光で淡くオレンジ色に発光している。それでも少女の顔は蝋のように白く、滑らかで。驚いたように見えても表情はなく、見つめてくる瞳は美しく深く、ただ視線を合わせているだけでも吸い込まれそうな──。



──…まるで、女神だ。



石倉は息を呑んだ。こんなにも美しい女がこんな辺鄙な温泉宿にたった一人で
いるわけがない。連れとはぐれたのだろうか。それにしても、こんな場所で。


「気分が悪いのなら、こちらの連れにドクターがいます。大丈夫、怪しい者
 ではありませんよ。僕は地球連邦独立艦隊『火龍』の副長補佐で、石倉静夫
 と言います。あぁ、身分証明書は部屋に置いてきたんだった」


とにかくそっちへ行きます、と、石倉は一度顔を引っ込めて欄干から飛び降りた。
裸足の足に土がつく。小川に踝まで浸かり、身を屈めて少女のいた欄干の下を
覗き込んだ。


「……あれ?」


「自分で降りてきておいて、あれ、とは心外だな」



──そこにいたのは、女神ではなく17番目の“エルダ”。



「さっきの──女の子は」


数度瞬きを繰り返してみたが、やはり先程の少女はどこにもいない。
いるのは砂州に座り込む矮躯の天才だけ。


「女? 女なんかどこにいる」


大山敏郎が視線を巡らせた。石倉もつられて周囲を見回す。──広い庭。星図のように散りばめられた灯籠。誰もいない。自分と、この大山敏郎以外には。


「……いないな。さっきのは気のせいか」


まだ、透けるようなあの髪の感触が指先に残っているのに。


「欲求不満じゃないのか。お前」


石倉の心を見透かしたように、力無く敏郎が笑った。それで、彼の
異変に気付く。


「どうした? どこか痛むのか」


頭上に注意しながら敏郎の肩を抱いて。その冷たさに石倉は思わず手を引いた。
指先から血の気が失せている。湯冷め、などというレベルではない。冷凍庫の中に指を突っ込んだような──否、これは。


「無限零度──?」


広大で、永遠の孤独。宇宙の温度。「そんなわけあるか」と、敏郎は背中を丸める。


「ちょっと夜風で冷えただけだ。それと、庭の見物を。ハーロックがいると
 うるさいからな。ちょっと、一人になりたかったんだ」


そのまま、ぎゅ、と膝を抱える。小さな手の甲に浮かぶ脂汗。敏郎は──病んでいる。病名はわからないが、この状態は明らかに異常だ。確信して、石倉は彼を抱き上げた。心臓が冷たくなるほど、冷えた身体を。


「こ、こら副長補佐。何をする」


「何をするも何も──病人をそのままにしておけるもんか。部屋はどこだ?
 医者は降りてきてるのか?」


「ただの湯冷めだ。大したことのない。それにお前、海賊に手を貸すのか?
 地球連邦独立艦隊の誇りはどうした?」


「ただの湯冷めでこんなにも冷えるか。それに、俺はお前に借りがある。
 それを返さないことには──俺はあの人の掲げる独立艦隊を名乗るわけには
 いかない!」


──ウォーリアス・零の掲げる正義と誇り。一度汚してしまった償いは、命に
代えてでもしなくてはならない。「そうか」と敏郎はそれきり素直に石倉の腕に頭を預けた。


「桜湯の間だ。ドクターは……草湯の間で酒を飲んでる」


「──そうか! それじゃあとにかく部屋まで連れて行ってやる」


ひらり、と渡り廊下に立ち戻り。石倉は半ば滑るように桜湯の間を目指した。




★★★
 
Drゼロは草湯の間で一人、手酌で酒を飲んでいた。『ゲロー』の地酒。日本酒にも似た味わいと色。熱燗で注文すると陶器の徳利で運んでもらえるのが嬉しい。焼いて軽く塩を振っただけの山菜を肴に、杯を重ねる。誰にも邪魔されない、閑静な時間。


──これが大人の男の飲み方だ──。


ゲロー産ワラビを囓って、御猪口に注いだ酒を一口。心からの幸せを実感する。

若き海賊騎士に誘われ、気高き叡智の使徒に手を取られて、一度は年月に埋没させた人生を浮上させた。
騒がしくも楽しい日々。愛猫と多くの仲間達に囲まれて、ゼロの日常には何の不自由もない。ゼロ自身、騒がしいのも嫌いじゃない。けれど、やはり一人で過ごす時間も必要だと思うのだ。

年若い仲間達は、皆大はしゃぎで各自ガイドブックに紹介されていた風呂を
目当てに散って行った。女3人集まると姦しい──古来よりそう言うが、男が
集まっても姦しいものだ。少しは余裕を持った休養をすれば良いものを。


──まぁ、若いうちにはしようがないか。


徳利を一本空にして、ゼロは立ち上がる。歳を経ると、このような動作さえ億劫になる。ミーメがいてくれれば良かったな、と思う。『デスシャドウ』で唯一の女性。心優しい異星人の少女。


「今からでも呼べるならなぁ」



 どどどどどどどどどどどどど……。


一人ごちる。何やら、廊下の方が騒がしい。──ここは離れの部屋なのに。渡り廊下を伝わって来る振動。静かな時間が台無しだ。大方、一般常識もわきまえない無礼な若造の仕業だろう、とゼロは音から背を向ける。昔から若さというものは無謀とも無知とも同義語なのだ。


──ここまで考えて仲間だったら、困るな。


 
 どどどどどどどどどどどどどどど──すぱーん!!



「ドクター!! 急患だ! アンタの艦のエンジニアだ!!」


乱暴に開け閉められる障子。入ってきたのは見知らぬ男。浴衣の裾も乱れたまま、ずかずかと遠慮無しに踏み込んでくる。


「大山敏郎だぞドクター! 彼は何か持病持ちなのか? 常備薬はどこに」


「う──うるさぁぁぁあい!!」


どたばたと部屋中をひっくり返す亜麻色の髪をした青年。ゼロは無言のまま空になったばかりの徳利で彼の後頭部をどやしつけた。ぱりん、と脆い萩焼の徳利が、彼の頭で砕けて割れた。


「いったぁぁあぁ。何をするんだ、いきなり」


青年が涙目になって振り返る。よく見たらタンコブが出来ていた。


「ここの医者はいきなり人の頭をどやしつけるのか? 何て乱暴なんだ!!」


「最近の若者は最低限の礼儀も知らんのか?! いきなり入ってきて騒ぎまくり
 おって──すみません、とか、失礼します、とか、何かあるだろが!!」


倍程の声量で怒鳴りつけてやる。随分目線の高さに差があるが、そんなこと程度では挫けないのだ。ゼロの剣幕に、青年は不服そうな顔をしながらも一応詫びる言葉を口にした。


「確かに…急に騒いだのは非礼だったな──俺、いや、私の名は石倉静夫。
 地球連邦独立艦隊『火龍』の副長補佐だ。何なら調べてもらっても構わない
 が、今はそういう場合ではないように思う」


「『火龍』……? あぁ、キャプテンから聞いたな、そういえば。そこの艦長が
 目下のところキャプテンのライバルだとか何とか」


「あぁ、訂正・反論したい部分は多々あるが、ここはそれらをぐっと呑み込ん
 でアンタに伝えなきゃならんことがある。アンタの艦のエンジニア──」


「敏郎か? それとも魔地が湯当たりでも起こしたか?」


青年の頭から爪先を横目で眺めて、ゼロは問うてやる。二十歳前後の青年。
名前こそ旧ニホン名だが、見かけは殆ど西洋人だ。下手をすれば女性に見えなくもない中性的な顔立ち。『デスシャドウ』にはいないタイプだな、と思考の
隅っこで品定める。──取り敢えず、悪意はないようだった。


「マチ? 知らないな。データにないクルーが増えてるのか……また。い、
 いや、そんなことはどうでも良い。大山敏郎の方だよ。お──私が言って
 いるのは」


「無理に慣れない一人称を使わんでいい。そう礼儀正しくしろとは言うておら
 ん。ワシが言いたかったのは、最低限のルールは守れと言うことでな、反省
 さえしてくれればもう構わんのだ」


「そ、そうか。じゃあドクター、ほろ酔い気分のところ悪いんだが、俺と
 一緒に来て下さい。大山敏郎の体調が優れないようで──一応、部屋に
 寝かせてきたんだが」


地の言葉と敬語が入り交じった複雑な青年の口調。目上の者への礼儀と、
海賊に取るべき態度を混在させた彼なりの礼なのだろう。ゼロはふと口元を緩めて襟元を正す。


「そうか。まぁ、アイツは風呂が嫌いだからな、拒絶反応でも起こしたのかも
 しれん。あぁ、そこの鞄を取ってくれ。その古いのをな」


部屋の隅に置いてある同室の二人と自分の荷物。ゼロの言葉に従って、青年は
躊躇いがちに一番古く、取っ手の変形しかかった手提げ鞄を指差した。ゼロが頷いてやると、素直に抱えてついてくる。助手を持ったような気分だった。ゼロは少しばかり胸を張る。


「それで? 敏郎の具合はどうだったんだ? どんな風に悪そうだった」


「それが──…本人は湯冷めだと言っていたが、体温が」


「高かったのか? 38度くらいありそうだったとか」


「いや、全然無いみたいだった。気のせいかも──しれないけど。あれは、
 宇宙の温度と同じような」


廊下に出た。桜湯の間は同じ離れに位置している。離れと離れの建物を繋ぐ
小さな橋を渡ればすぐ。


「宇宙の温度だと? 無限零度かね。あるわけなかろう。人の体温だぞ」


「──それは…俺にだって。でも」


青年が言い淀む。暗い屋外。灯籠と、桜湯の間と、遠くの母屋以外に灯りはなく。


「でも、俺はこの手で──」


──青年の言葉に嘘はない、ように見える。間接的な光しかない中、頭2つ分も身長差のある青年の表情を窺い見るのは難しかったが、それでもこの青年が虚言をしているようには見えない。

けれど、無限零度になる人の体温など、絶対にあり得ない。


「まぁ、冷えきった人間の身体というものはな、思いの外に冷たく感じるモン
 だ」


それだけ言っておく。「そうですね」と青年が頷く。


「でも……それは人の常識、ですよね」


囁くように、独り言のように落ちた言葉。──人の常識。確かにそうだ。
橋を渡る。小さな庵のような建物。仄かに香る桜の湯。ぴた、とゼロは
部屋の前で足を止めた。


「……何が、言いたいのかな、青年よ」


「いいえ、別に」


長い五指を確かめるように数度曲げて、青年は振りきるように溜息をつく。


「思いの外に冷たかったんだな。湯冷めした人間の身体っていうのは」


勉強になった、と微笑する。ゼロはつられて少しだけ笑い、障子の縁に手をかけた。














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