想夢・2



☆☆☆


こんな夢をみる──。


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現実にあったことの夢だ。彼女を妻に迎えて丁度一年目。俺に珍しく休暇が許された日の夢。


昼下がりの午後。俺はリビングで次の戦いに向けての戦略を練っていた。妻は、
キッチンで昼食の片づけを済ませ、俺のためにコーヒーを淹れている。

華奢な背中、彼女が動くたびに、やわらかな髪が揺れる。俺は時折視線を上げて、彼女の姿を盗み見る。結婚して一年にもなるのに、俺は未だ彼女の背中にかけてやる言葉を持たぬ。行って手伝ってやれば良いのかもしれぬが、彼女が迷惑に思うかもしれないと考えてしまえばどうしても立てない。

そうこう迷ううちに、彼女が盆を持ってこちらに来る。趣味の良い茶器と、手作りの焼き菓子。窓から流れ込んでくる陽光の中、淡く微笑む彼女は本当に美しいと思う。


一休みなさってはいかがですか──?


静かな声で、彼女が問う。カップを差し出され、俺は「そうはいかんのだ」と肩を固くする。


俺の双肩に地球の未来がかかっている。今、こうしている間にも、戦局は危うくなっているのだ。日々の安眠、三度の食事に困る者達もいるというのに、一休みなど到底出来ることではない。


えぇ、そうでしたね。浅はかなことを申しました──。


彼女が俯く。言い過ぎたのだと、それで気付く。俺はカップを受け取って、
「君が悪いのではないが」と何とか口調を和らげる。


言い過ぎたか。俺は。


いいえ、あなたは当然のことをおっしゃいました。私が浮かれていたのです。
久しぶりに、あなたが家にいらっしゃるのですもの。


にこ、と彼女が儚く微笑んだ。悲しい表情をさせてしまった、と、俺の胸がちくりと痛む。


長く──傍にいてやれなくて、すまない。君は充分に妻の役目を果たしてくれているというのに、俺は。


果たして夫としての役目を全う出来ているのだろうか。答えは否だ。その証拠に、夫婦であるはずの二人の会話がこんなにも拙い。


すまないと、思っているのだ。本当に。いかに戦中といえども、同僚の妻帯者は上手くやっているというのに、俺はどうにも不器用でならない。後悔してはいないか? 俺のような無骨者に嫁いだことを。俺のような男が夫では、君も色々と不愉快な思いをすると思うのだ。


彼女の淹れてくれたコーヒーは美味い。質の良い豆どころか、コーヒー豆の入手も難しくなっているというのに、彼女の淹れたコーヒーは、いつでも薫り高いのだ。丁寧に豆を挽き、時間をかけて淹れるからこその味。もっと他に味わうに相応しい男がいるのではないだろうか。


どうせ、俺は明日にも戦場に戻る身だ。君さえ良ければ、今の内に籍を抜くことも考えている。君を幸せにするのには、どう考えても俺の力が足りないのだ。


上官に勧められて決めた婚姻。写真でしか知らなかった彼女の顔。結婚などまだ早いと思っていた。けれど、決意を固めたのは、彼女に初めて会った瞬間。
儚げな瞳に垣間見えた確かな意志を感じた時。

長い年月をかけて愛していくのに価する女性だと、そう確信したその時。

けれど、そのように考えていることが、彼女の重荷になってはしまいか。


いつも──そのようにお考えだったのですか──?


すい、と彼女が立ち上がる。俺もつられて視線を上げた。いつも美しいと思う
彼女の顔。大きな瞳から一筋、涙が零れ落ちる。


──…そのように情けない考えはすぐにお捨て下さいませ──……!


私は。彼女は確かにそう言った。

私は。そこから先が思い出せない。


──私は。そこで、夢が終わるのだ。



☆☆☆


「取り敢えずアレだな──。欲求不満か。酒でも飲んで、女抱けば?」


医療惑星『メディカル』。俺の夢の話を聞いたのち、目の前の少年が、ぷかりと煙草の煙で輪を作った。俺は、暫し迷ったのち、少年の頭に拳を振り落とす。

ごん。4番目の“エルダ”、Drジャック・クロウヴァが「いてて」と
細い目を潤ませた。


「痛いなぁ。知識の宝庫たるこの頭をブン殴るとは。ほんの1世紀の間に
 地球人も乱暴になったモンだ。年寄りに対する敬意ってモンがねぇ」


「敬意を払われたいのなら、そのような言動を取ってくれ。しかも、年寄りと
 言うが、貴方は俺よりもずっと若く見えますよ。どう見ても10歳くらいの
 東洋人だ」


薄暗い研究室。書類に埋もれた机には、ディスプレイの大きなパソコンが一台。他の場所は全て膨大な量のファイルとMOディスクが敷き詰められている。これが“エルダ”の部屋。完全消毒で埃一つないこの無機質な空間に、俺と少年は対峙している。香辛料のような煙草の匂い。黒い髪に、大きめの白衣。細い目を一層に細めてクロウヴァが笑う。


「ドクトルから聞かなかったかね。儂は、より確実な治療を行うために全身
 機械化したのだよ。同じことを儂の弟子もしたはずさ。機械化人の肉体
 年齢は全く当てにはならんのだよ。『火龍』に乗っている儂の弟子もアレで
 相当のジジイなのだから」


若作りなんだよ、とクロウヴァが椅子の背に寄りかかる。若作りというなら、彼の方が相当に作っている。噂によれば『メディカル』は、もう100年、この少年の統治を受けているのだというのだから。

医療惑星『メディカル』は、宇宙史始まって以来、唯一“エルダ”が全権を掌握する惑星国家なのである。


「ジジイはともかく──その小さな体で、貴方の言う、より確実な治療は
 行えるのか? さっきの言葉といい、どうにも信憑性に欠ける」


「男の能力は見かけに比例するのかね? そのような考えではこの宇宙を
 押し渡っていけないな。ウォーリアス・零殿」


カルテを一瞥して俺の名を呼び、ぷかり、と一世紀を生きた少年が煙草をふかす。俺を見つめる老獪な瞳が俺にある男を思い出させた。我が友にして好敵手──ハーロック。その傍らにいつも在る小さな男。

名は──大山敏郎といったか。ハーロックは「トチロー」と呼んでいた。恐らく、旧ドイツ出身である彼には発音し辛い名なのだろう。微妙になまって聞こえるのはそのせいか。


大山敏郎。俺は──あの男が苦手だ。あの男は、他者のつまらぬ意地を見抜く。
つまらぬプライドを見抜く。恐れを見抜く。

そして──責めない。決して。人の弱さを、愚かさを責めない。



遥か高いところから睥睨するような慈悲と慈愛の眼差しが、俺は──苦手だ。



「おい。若造よ。何を思い出している?」


気付けば、クロウヴァの細い瞳がこちらを覗き込んでいた。底の知れぬ黒い眼差し。俺は慌てて顎を引く。


「──…クライアントに対して若造とはなんです」


「若造だから若造さ。と、いうか、儂は人の名前と顔を憶えるのが苦手でね。
 長年苦楽を共にした親友の名前すら、今では自力で思い出せんのだ。叡智の
 代償、“エルダの欠陥”ってヤツだよ」


クロウヴァが自らのこめかみを示す。エルダの欠陥。初めて聞く言葉だ。意味を問うと、クロウヴァは「知らないのかね」と大袈裟に目を見開いた。


「“エルダ”っていう人種はな、その能力と引き替えにどこかしら肉体や脳に
 欠陥を持つのさ。例えば、善悪の区別のつかん奴もいるし、記号が全く理解
 出来ん奴もいる。儂の場合は個体の区別がつけられん。名前というものも
 わからん。どいつもこいつも同じに見える。儂にとって生き物を区別する
 術は病だけなのだよ。病の種類や症状だけが、儂に生き物を個体化させて
 くれる。“エルダ”は叡智の使徒などと呼ばれておるが……結局はその叡智
 に縋らなければ生きていけない哀れで矮小な生き物なのだよ」


大切に保護してくれ給え──。そう結んでクロウヴァは「ひょひょひょ」と笑う。


「それは──…初耳だな。“エルダ”というのは、人間兵器でさえあると聞か
 されてはいましたが。そうか、そのような欠陥を持つのなら、政府が保護
 したがるのも無理はない」


善悪の区別もつかない知的生命体など、安全装置のない銃と同じである。
俺は、今にしてようやく、地球連邦がハーロックのデスシャドウ号を執拗に
危険視するのかが理解出来た。あの艦は──17番目の“エルダ”、大山敏郎の
造った艦なのだ。政府にも国家にも保護を求めぬ無法の叡智が。


「ところで、Drジャック・クロウヴァ。先程、貴方は俺に何を思い出して
 いるのかと尋ねましたが」


「あぁ。目の動きでね、わかるのさ。さっきのお前さんの目は、さほど遠くは
 ない過去を思い出しているときの目だ。それも、苦手な何かをね。いや、
 誰かをか? 眉がいささか寄っていたし、考えてる時間が長かった」


何でもないことのように言い、クロウヴァは煙草を灰皿の上で揉み消した。すかさず通気口から排出される消毒の気体。無色無臭のそれは、通気口の開く
音と共に室内に満ちる。


「人体観察術か。探偵にもなれますね、ドクター」


俺は客用ソファに深く沈み込む。「お生憎さまさ」とクロウヴァが肩をすくめた。


「儂の故郷にはタンテイという職業がなかったのでね。地球によく似た星では
 あったが、嘘の無い清い星だった。だから壊れた。誰も嘘をつかないから」


──儂の親友のようにね。少年が呟く。無感情だった黒い瞳に、ちらりと悲しみに似たものが浮かんで消えた。


「嘘をつかないと壊れるか。嘘の無い星というものは、理想郷のようにも
 思えるのですが」


「それは、嘘を悪しきものと思い込んでいる人間の言葉さ。若造よ、随分固い
 ことを言う。嘘は悪い。確かに、秩序と常識を重んじるのならばその発言も
 仕方のないことだがね」


「仕方のない──ことですか」


俺はそっと眉を顰める。仕方のない。仕方がない。その言葉は、嫌いだ。
諦めと、侮蔑さえ感じる言葉。けれど、クロウヴァの口調からは、諦めも、
侮蔑の感情も無い。ただ、本当に仕方がないと思っている、そんな口調だ。


「秩序と常識を重んじるのは、悪いことですか」


「いいや、それは正しい。秩序と常識無くして、知恵のあるものは立ちゆかぬ。
 だが、嘘というのは時に人道と道徳を司ることもあるのだよ。それを知らぬ
 者は固い。例えば、お前さんは嘘をついたことがあるかね」


「いいえ──」


本当に、無い。虚実に何の価値があろう。真実の言葉、真実の心。そういうものでしか人は動かぬ。俺は、艦長として、男としてそのようにしてきたのだ。誰にも、何に対しても嘘はつかぬ。それが、俺の誇りなのだ。

そう言うと、クロウヴァは「そうかね」と微笑した。遥か高いところから睥睨するような、慈悲と慈愛のこもった眼差し。この男は──苦手だ。咄嗟にそう思う。


「真実か……確かに真実は貴い。けれど、真実というのは得てして厳しい
 ものだ。真実だけが、人の心に触れるのではないよ若造。時に、その人を
 想いやり、尊重した上でつく嘘が、人の心を深く揺さぶることもある。
 例えば、近く死に到る者がいるとして、それを隠すための嘘は過ちか? 
 そして、それを知りながら、なお傍で笑っていてやる者は非道かね」


しゅ、とクロウヴァは新しい煙草にマッチで火をつける。燐の匂いが鼻孔を掠めた。


「儂の星には嘘が無かった。悪しき嘘も、誰かを想うがゆえの嘘も。だから
 壊れた。真実しかなかったからだ。融通の利かぬ星だったからだ。誰も、
 己を曲げられなかった。無論、この儂も。そうして──死なせてしまった男
 がいる。儂の友で、この『メディカル』の宗主だった男だ。儂が後悔しな
 かったとでも思うかね? 毎晩、そいつの夢をみたよ」


「夢──…」


俺がみる夢は──亡き妻の。遠回りにも思えた近道。クロウヴァは、答えを俺に告げようとしているのだ。


「深い闇の底からな、そいつの責めるような顔が見えるのだ。自らレーザー
 銃で木っ端微塵に頭を砕いてしまったくせに、儂の夢の中では顔がある。
 儂はそれが怖くてな。“エルダ”には感情が無いというが……本当に怖かった。
 責めるような顔をしておるくせに、一言も責めないそいつが恐ろしくて、
 一時は憎みさえしたのだよ。夢の中の友をな。けれど──」


煙草を灰皿の上で揉み消す。ごぅぅぅん、と通気口から排出される消毒の気体。


「──儂の友は、本当に心の優しい男だった。誰かを恨んだり、憎んだりする
 ような男では到底なかった。いや、そういう男だったからこそ、儂のような
 男と長く友でいられたのだ。人の顔と名前すら記憶出来ぬような欠陥人間
 とな。何度儂がそいつの名前を忘れても、そいつは嫌な顔一つせずに訂正
 してくれた。子供のように胸に名札までぶら下げて、笑っていてくれたのだ。
 わかるか? 若造よ。儂の言いたいことが」


「ドクター。俺は若造じゃなくて零なんだが……。仰有りたいことは、
 何となく理解出来ます」


死者の夢。毎夜、心を嘖むのは、妻ではなく。


「友のことを深く思い出して、儂は気付いたのさ。このジャック・クロウヴァ
 が生まれて初めて嘘をついていたことにな。自分自身に、忘却という名の
 嘘を。自分に都合の良いことを忘れ、友を悪者にして自分を慰めようと
 していた悪辣なる嘘をな。気付いてしまえば、夢は消えた。それ以来、
 儂はこうして生きている。友と約束した──完全医療惑星の建立のために」


わかるかね、零よ。クロウヴァがカルテを一瞥する。本当に人の名を記憶に留めておけないのだ。友と呼ぶその男の名前さえ、この小さな機械化人はデータに焼きつけておけないのだ。


それでも、夢はみるものか。悲しいことだと俺は思う。


「俺は──嘘をついているということか。自分を慰めるための嘘を。
 しかし、俺がみているのは現実にあったことで」


「思い出せんのだろうが。奥方の言葉が。別れ話を持ちかけたお前さんに、
 奥方が言った言葉が。彼女は何と言った。お前さんは、自分に都合の良い
 ことを忘れているのだ」


思い出すには──酒と女だな。どんちゃん騒ぎでもしてみろよ。それきり、クロウヴァはくるりと俺に背を向けてしまう。もう話すことはないらしい。俺は一礼して立ち上がり、ドアノブに手をかけた。


「──どうしても、騒がなくてはいけませんか」


「心易い者達とな。お前さんが、肩書きも建前も脱ぎ捨てられる場所ででなく
 ては意味が無い。お前さんを秩序と常識、そして規律を捨てた場所に、
 優しい真実が眠っている。それを掘り起こすのは──お前さんの仕事さ。
 死者の声は、生きているものが自分の中から聴き取るしかない。この
 天才ジャック・クロウヴァのメスの届かぬところなのでね」


もう行って良いよ、と無邪気に追い払われる。俺がこの部屋を一歩出た瞬間に、
彼は俺の顔と名前を一切忘れるに違いない。彼は、カルテの中でしか誰かを想起出来ぬのだ。


「死者の声は──自分で聴き取れ、か……」


医療惑星『メディカル』いかなる病も完治させるというこの星の上で、死者という単語を聞かされるというのは皮肉なことだ。純白の廊下に出て、サイボーグの看護婦とすれ違い、俺は小さな溜息をついた。














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