想夢・3



☆☆☆


──そして、俺は今、四畳半から夜空に投影された月を見ている。


他の場所など考えられなかった。俺が、全ての肩書きもしがらみも脱ぎ捨てて、
ただのウォーリアス・零でいられる場所。

何の打算も懸念もない時間が、敵ともいえる男達の隠れ家でしか得られないというのは何とも皮肉なことである。けれど、軍人ではないハーロックは俺の部下ではないし、大山敏郎も地球政府に登録された“エルダ”ではない。


「ここに来ると──不思議と落ち着くのだ」


そんな言葉さえ、するりとこの不器用な口をついて出る。


「ここで酒を飲んでいると、俺はようやく一人の俺で在れる気がする」


「ふぅん、じゃあいつもの零は零じゃないのか」


アンドロメダ・レッドバーボンの入ったグラスを一舐めし、ハーロックが凝っと俺を見つめた。俺は、ふ、と苦笑する。


「そうだな……。『火龍』の艦長としての俺と、亡き妻の夫であった俺と。
 どちらも俺だが──呼吸がし辛い。手足を伸ばして寝っ転がれるような
 場所ではなかったよ。無論、それは俺が重い責任を持っているからなの
 だが……」


忘れていた夢を、思い出せる場所ではない。俺は、サルマタケ星に輝く満月を
仰いだ。いつまでも傾かぬ月。ここは──時間が止まっている。


「本当は、お前達と行くのも悪くはないと思ったのだ」


バーボンを一口。俺は呟いた。自由の旗を掲げて、無限の宇宙をひたすらに征く。
それはどんなに楽しいだろう。

けれど、時間は誰にも平等に流れていくわけではなく。

自由の旗を掲げるには、俺はあまりにも背負い込み過ぎていた。
守るべきもの、守りたいものが多過ぎる。何もかも投げ出しては行けないのだ。


「今からでも行けるぞ? トチローだって歓迎する」


ストーブの上で、するめが焼ける。ハーロックが俺にグラスを差し向けて来た。


歓迎──されるだろうか、俺は。

歓迎──するだろうか、大山敏郎は。


否。きっと彼は俺の一番苦手な眼差しで俺を射抜くのだ。守るべきものを放棄
して得る自由など、彼はきっと許しはしない。俺は、そんな眼を向けられる自分を許せはしない。

そのように言うと、ハーロックは「へぇ」と眉をへの字に曲げた。


「なんだ。零は、トチローが苦手なのか。随分仲良しになったなー、とは
 思ってたけど。零って天の邪鬼なんだな」


「天の邪鬼ではないよ。トチローのことだって、苦手ではない。むしろ、
 賞賛に価する人物だと思っている。下手をするとハーロック、お前よりもな」


「うん。トチローは俺よりもずっと賞賛に価するよ。もっと褒めて」


素直にハーロックは首肯する。彼は、かけがえのない友人が褒められるのが
心底嬉しいらしい。「トチローは凄い男だよ」と、訊きもしないのに語り始める。


「頭が良くって、気高くて。料理も上手で、楽器も得意で──ハーモニカ
 いつも持ってるんだ。気が向くと聴かせてくれるよ。それから、サーベルの
 達人だし、歌も上手いし──…それから」


指折り数えるハーロック。本当に、敏郎のことが好きなのだ。見ていればわかる。
見ているだけでもわかる。目を閉じていても互いを語るその言葉を聴くだけで。

互いが互いを、どれだけ想っているかがわかるのだ。


「羨ましいよ、お前達が」


たとえ永遠の別れが来ても、この二人は二人の絆を疑うことはきっと無い。


「俺も、妻にそのように言ってやれば良かったのかもな」


「は? どのように?」


ハーロックが、きょとん、とする。俺はグラスの底に溜まっていたバーボンを
呷った。


「自慢の妻だと、言ってやれば良かったのだ。何度も何度も繰り返し。お前が
 トチローを大切にするように。俺は駄目だな。言わずとも──理解しあえる
 と思っていたのだ。長い年月をかけていけば、言葉など必要のない二人に
 なれるだろうと。長い年月をかけていけばなどと思っていたから、妻には
 何も言えず終いだった」


「──…亡くなった奥さんの話か?」


「そうさ。毎晩夢にみるよ。彼女と最後に別れた日の夢。彼女と二人きりで
 午後を過ごした時の夢。夢の中でさえ取り戻せないんだ。手を取って、
 笑いかけてやれば良いのかもしれんのに」


──あの日から、上手く笑えない。


「夢の中でさえ、彼女は悲しい顔のままだ。俺には何もしてやれん。
 墓参りとて虚しいだけだ。墓碑には彼女の亡骸が無いのだからな。
 詫びたくても──何をどれだけ詫びてやれば良いのかわからない。
 どうすれば安らぐのかがわからない。俺は──…俺には、彼女の夫たる
 資格がなかったのだ」


それなのに。
不幸な婚姻。不憫な妻。まだ、名さえ無かった我が子。

一度も、抱いてやれなかった。


「本当は、ハーロック。俺は彼女といるのが苦しかったのだ。きっと、
 彼女も苦しかったろう。だから、俺は」


笑えよう筈もない。彼女との婚姻を決めたあの日から。彼女を根こそぎ喪った
あの日から。



あの日から──上手く笑えない。



「だから、零は奥さんが好きだったんだな。悲しいなら泣けば良いのに。
 泣け泣け。俺しか見てねーよ。泣いてしまえ」


にひひ、とハーロックが笑いながら俺の肩を叩いてきた。──先程からの俺の話を聞いていたのだろうか。俺は、彼女の夫たることが辛かったと告白したのに。

俺がそう言うと、ハーロックは「この天の邪鬼」と酒臭い息で顔を近付けてくる。


「だから天の邪鬼だって言ってるんだよ。この世はなぁ、何だって本当のこと
 は苦しいんだよ。真実は厳しくて、現実っていうのは容赦がないのな。だか 
 ら、一生懸命するんだろ。夢だって、誰かを好きになることだって。難しい
 ことだから、一生懸命」


辛くないことは嘘っぱちなんだよ、とハーロックが唇を尖らせる。かなりの極論だが、俺とってはクロウヴァの言葉よりもわかり易い。「だからな?」と、ハーロックが俺の肩を抱いて続ける。


「零にとって、トチローと仲良さそうにするのが簡単なのは、トチローが
 苦手で、零が自分に嘘つくからだろ。零がさ、トチロー苦手だってのは、
 俺、最初から知ってたもんなぁ。トチローは本当のことしか言わないから、
 零みたく色々背負ってると苦しいんだな。これが。建前とか、立場とか
 あると苦しいの。トチローはそういう壁越えちゃってるんだもん」


「あぁ──…」


──そういう、ことか。ヘル・キャッスルとの戦いで、敏郎は一番最初に『セントエルモ砲』の弱点を見抜き、改善を提案した。その前後策も提示して。
けれど、俺はそれに従えなかったのだ。地球連邦独立艦隊艦長としての責任と
立場が、海賊の意見をはねつけた。


信用してくれ、と敏郎は言った。危険過ぎる、と俺は返した。


俺にはクルー全員の命を守る義務があるのだと。あまりにも稚拙な言い訳だ。
臆病者、と罵られることも覚悟していた。


敏郎は一瞬不思議そうな顔をして──瞬く間に理解を示した。深い理解と、同情かもしれない。眼鏡の奧の小さな目は睥睨するような慈悲と慈愛に満ちていて。



そうか……確かに危険だからな。仕方がない──…。



仕方がないと言ったのだ。仕方がない。仕方のない。俺の、最も嫌悪する言葉を。
けれど、何の含みもない、本当に仕方がないというように。


「だから……Drクロウヴァも……」


苦手だと、思ったのか。“エルダ”の言葉は痛いほど真実なのだ。成程、確かに認めてしまえば嘘の無いことの何と厳しいことか。


嘘を厭うた俺の言葉は、何度も彼女を傷つけたに違いない。


だから、彼女は泣いたのだ。美しい瞳から、一筋の涙。


「俺は──どうにも不出来だな」


「不出来って……農作物じゃあるまいし。零はさぁ、物事深刻に考え過ぎ
 なんじゃないのか? だから、天の邪鬼なんだよ。トチローと仲良くする
 のが簡単で、でも零はトチローが苦手なんだろ。だったら、奥さんと一緒に
 いるのが辛かったのは、零が奥さんを凄く好きで、絶対嘘とかつきたくな
 かったからじゃんか。ほら、簡単になった」


ねぇ? とハーロックが笑う。そうかも知れぬ、と俺は思う。随分酒が回っているせいか、簡単なことだ、と頷いてしまう。



──けれど。


「ハーロックよ。俺は良いのだ。俺が、妻を想っていたかどうかが問題なの
 ではないぞ。俺の憂いは、俺が、彼女の夫であるに相応しくなかったと
 いうことだ。彼女が不憫であったということだ」


そうだ、彼女はいつも儚い顔をして。


「馬鹿じゃねぇの。零」


ハーロックがするめの頭を食い千切る。


「嫌いな男の妻になるオンナなんかいないよ。そりゃあ、家の事情とか、
 色々あって嫌いな男にでも嫁がなくちゃいけない人はいるけどさぁ。
 でも、少なくとも零の奥さんはさ──」


──笑ってるよ。ハーロックの右手から、俺の懐中レーダーが零れ落ちる。
 

「笑ってるじゃんか。ちょっと儚いけど、俺にはフビンな人には見えない
 なぁ。いや、むしろ零みたいな硬派がこんな風に写真を持ち歩いてるって
 ことが奇跡。むしろ似合わない。奥さん、ひょっとしたら自慢してたかも
 よ? 私の夫は私の写真をいつも持ち歩いているんですよーって。どう
 ですか、そんな妻」


「ばッ……彼女はそんな軽い話し方はせん!! それより、いつの間にすり取った
 のだ! 海賊め!!」


返せ返せと大声で喚く。隣室で敏郎が病床にあることさえ一瞬忘れた。狭い四畳半で大の男が縺れ合う。どたどたと埃を舞い上げて、俺はハーロックの手からレーダーをもぎ取った。


「全く……油断も隙もない男だな」


開いて、写真を確認する。儚い彼女と、名もない我が子。これだけが、俺の手に残ったものなのだ。


「なぁ、零。それ大事?」


ハーロックが体を起こして胡座をかく。「当然だろう」と俺は憮然とした。


「俺の家族の写真は、もうこれだけしかないのだぞ。海賊風情にくれて
 やれるものではない」


「さっき、記憶のために人を害そうとは思わないとか言っといてさ。
 害したじゃんか。噛んだろ、俺の手」


ハーロックの右手には、俺の歯形がくっきりとついている。俺は「ぺぺぺ」とバーボンで口をゆすいだ。


「噛んだのか。我ながら気色の悪いことをした」


「噛まれた俺だって気色が悪いっての。でも、さっきの嘘大人の零よりは、
 今の方が良い。誰だって、大事なものをなくさないために必死なんだ。
 記憶だから、とか実体の無いものだから、とか、そんなの関係ないんだ。
 それが、当たり前なんだぞ」


「──ふ」


俺は微笑する。口元が、自然に上がった。軋むような違和感は無い。


「そうだな、当たり前だ。悔しいがハーロックよ、お前の言う通りだ」


俺はごろりと大の字になる。狭い四畳半、畳の香り。


「何だよ、寝るのか?」


つまんないなぁ、とハーロックが頬を膨らませる。──一体どんな肝臓をしているのか。正直彼の酒量にはついていけなかった。


「あぁ──寝るよ。明日で有給も終わりだしな」


明日の午後には──『火龍』に戻るのだ。地球の周りを訓練飛行する、俺の在るべき場所へ。


地球連邦独立艦隊『火龍』艦長ウォーリアス・零に還る。


重い責任と、守るべき者達のために。そして何より──これから築かれていく
人々の未来のために。


辛くとも、厳しくとも、それが俺の真実なのだ。

背負っていくのが俺の誇りなのだ。


俺は、ゆっくりと瞼を閉じた。




☆☆☆


こんな夢をみた──。


☆☆☆


彼女が初めて俺に涙を見せた日の夢だ。


俺が、彼女に別れ話を切り出して、彼女がそれを「情けない考え」と切り捨てた日の夢。


美しい彼女の瞳から、一筋の涙が。


──…私は。私とて、生半可な覚悟で貴方の妻になったのではありません──!!


穏やかな声に、凛然とした響き。涙を拭った彼女は、き、と俺を見下ろした。


「貴方は、その双肩に地球の未来を背負った御方。名門ウォーリアス家の
 正統なる嫡子。私はそのような方の妻なのです。貴方の求婚をお受けした
 時、私が何も考えていなかったとお思いですか」


俺の求婚。一年前のことがふと頭をよぎる。俺は──何と言って彼女を。


「一年前に貴方はおっしゃいました。俺は女性の扱いも知らぬ不調法者だ。
 けれど、俺は──」



──俺は、今、妻とするべき女性に出会ってしまった。どうか、この生の終わるまで、俺と共に歩んではくれまいか──。



思い出す。彼女の言葉と重ねるように。妻にするべき女は、彼女だけだったの
だということを、思い出す。彼女が、淡く頬を染めた。


「父の同僚の方に勧められて、その夜のお言葉でした。本当に不調法な……
 本当に不器用なお言葉。けれど、嘘の無いお言葉。私は、だから貴方の妻に
 なろうと決めたのです」


「何故……?」


俺の呟きに、彼女は儚く微笑んだ。そっと膝を折り、俺の手に白く華奢な手を
重ねる。


「貴方が、嘘の無い御方だから。嘘の無いことは厳しいことです。けれど、
 何よりも誠実なこと。貴方が私を妻にするべき女と言うのなら、私は
 そう在るべきだと思ったのです。これから、多くを背負っていくであろう
 貴方の傍に」


この生の終わるまで、貴方と共に──行くために。


厳しくとも。辛くとも。


貴方と──共に。


彼女は、そう言ったのだ。儚い微笑みに憂いなど無かった。



白い華奢な手を持つ彼女。美しい瞳に宿る透明な意志が──。




俺の妻になるべき人は、彼女しかおらぬと決めさせたのだ。






☆☆☆


目が覚めると、割れた窓から朝靄が滑り込んできていた。


流石に寒い。俺は中腰でストーブに火を点ける。いつの間にか脱ぎ捨てたコートを引き寄せて肩にかけると、幾分か体温が取り戻せる。


「おはよう。寒いな、今日は」


昨日と同じ青い気密服のまま、ハーロックがどこからか戻って来た。
何故かヤカンを右手にぶら下げている。どこに行っていた、と尋ねると「隣の部屋」と難なく答えた。


「昨日の夜も寒かったしなぁ。トチローの部屋に火鉢入れてやってたんだよ。
 誰かさんが大の字になって寝るから俺の寝るスペースが無くなったし。
 トチローが心配だったしね。体が温まるようにって、卵酒も見よう見まねで
 作ってやったんだぜ。ちょっと味見してくれよ」


「あぁ、ありがたい。丁度夜露で体が冷えていたところなのだ」


差し出されたヤカンを受け取り、昨夜のグラスになみなみと注ぐ。


 ……どろっ……ごぽっ……。


──細いヤカンの口から、黄身と白身が入り交じった何とも気味の悪い液体が流れ出た。ぷん……と強いバーボンの匂いが鼻をつく。生臭い。俺は思わず鼻をつまんだ。


「………これは………?」


「俺特製半熟卵酒! 風呂で作った温泉卵をバーボンで割ってみました。
 どうよ。コレ」


「こんな精神衛生に悪いモノ飲めるか────ッ!!」


遠くのお空へ飛んでいけ。俺は思いきりヤカンを窓からブン投げた。
きらーん、とヤカンが人工太陽の照り返しを受けて視界から消える。


天国にいる妻よ、俺は17番目の“エルダ”の寿命をほんの少し伸ばしたのだ。


「何てことするんだよ零!! 折角俺が──!」


「やかましい! あんな不吉な飲み物はこの世に存在せん方が平和のためだ」


すっぱりきっぱり切って捨てる。「何だよ何だよ」とハーロックが部屋の隅で背中を丸めた。


「そりゃあさ、俺には中華鍋くらいしか料理の才能は無いけどさ。何も放り
 投げることないだろが。俺がトチローのことを想って一生懸命」


「(中華鍋……?)いや、お前がトチローを想う気持ちはわかるが。想うなら
 余計に普通にしてやっていれば良いのではないか? 正味あんなモノを飲ん
 だら死期が早ま……いや、ただの風邪が急性肺炎を併発するかもしれんしな」


「そんなに酷いのかよ。ちぇ」


「まぁ、そう嘆くな。俺も料理は苦手だが──粥くらいなら作れるぞ。
 昨日の飯の残りがあったろう」


「カユ?! へぇ、零って日本の料理も出来るのか」


「まぁ、4分の1は日本人だからな」


俺は立ち上がって台所に赴く。ガスレンジに置かれたままの両手鍋には、一膳分程の白米が残っていた。


「卵残ってるぞ。卵入れろ。卵」


ハーロックが横から赤卵を二つ差し出してくる。もう地球では見られなくなった高級品だ。それが、先程の卵酒に消えたのか。俺は心の中でどこかの星雲の養鶏所に詫びた。


「天然の卵は栄養価が違うって言うからなぁ。一個手に入れるのに宇宙金貨
 2枚! しかし、その程度ではこのハーロックの身代は揺るがないので
 ゴザイマス。どうですか零さん。貧乏公務員には手も出まいよ」


「その貴重品をゲロのような酒に練成したのはモノの価値もわからん馬鹿海賊
 か。『火龍』に戻ったら即刻貴様らの取り締まりを強化するよう委員会に提言
 しよう」


「──…可愛くないヒトだ。キミは」


ハーロックが不貞腐れる。俺は無視して米を煮ることにした。米を煮て、塩を入れ、卵を入れてかき混ぜる。柄でもない──穏やかな気持ち。


「なぁ、ハーロック」


「何だよ、零。やっぱり海賊したくなったか」


「それは無理だ。俺には捨ておけぬものが多過ぎる。そうではなくて」


「そうではなくって何だよ」


「トチローのことさ」


「トチロー?」


「お前が、笑っていてやれば充分なのではないか?」


くつくつくつと米が煮える。温かい湯気。敏郎は、こんなにも穏やかな気持ちで食事を作るのだろうか。

きっとそうなのだ。精密に、手際良く。最も大切な友のために。


「昨日、夢をみた」


「夢?」


「妻の夢だ。彼女は──笑っていたよ」


──笑って、いた。儚く、けれど凛とした潔さを以て。昨夜、敏郎と妻を一瞬重ねたのは、敏郎にもその潔さがあったから。

絶対的に訪れる死を前に、それでも微笑んでいた彼の姿が、俺の妻たる覚悟で生きた彼女の強さと重なったのだろう。


「忘れていたのだ。俺は。彼女が微笑むことの意味をな。彼女の微笑みに
 救われて、大切で。だから、ずっとこの胸に留めておきたかったことを」


俺に残された、たった一枚の写真。


「トチローとお前に会いに来て、俺はそれを思い出したよ。だからこそ言える
 のだ。きっと、お前が笑っていることが、トチローには何よりのことなので
 はないかと。本当に大切な者が笑っていてくれることが嬉しい。他には何も
 望めないほど。まぁ、特に料理のことなどで彼がお前に期待しているとは思
 えんしな」


「まぁ──ね。知ってるけど。そんなの」


──知ってるよ。そう言って、ハーロックは笑った。少年のような、無垢な笑顔。


  きしぃ。


けれど、軋むような音が聞こえたのは俺の錯覚か。

俺の中で、俺が笑みの形を作るたびに鳴っていた音が、ハーロックからも
聞こえたような。


──…気の、せいだな。


この男は何も知らされていないのだ。敏郎は、実に巧妙に優しい嘘をついている。
ハーロックの前では気丈に、健康そのもののように振る舞っている。

だから、何も知るはずはないのだ。永別が訪れるその日まで、ハーロックはその日を指折り数えずに済む。敏郎がついているのはそういう嘘だ。


「さぁ、粥が煮えたぞ。碗やられんげやら用意してくれ」


俺は、精一杯明るく鍋を掲げてみせる。──これは嘘だ。俺の嫌いな虚偽である。



──嘘の無いことは厳しいことです。けれど、何よりも誠実なこと。



彼女の言葉が、耳朶をくすぐる。今、この一度だけ許してくれ、と俺は心の中で彼女に祈る。


そして、願わくばどうか。我が好敵手最上の友を、どうかお前の元に引き上げないでやってくれ。


神という者が在るのなら、俺の代わりにどうか。


頼んでやってくれないか──? リリィ。


ハーロックと共に碗に粥を盛り付けながら、俺は、そっと目を閉じた。














END







●これで、『慕。・4』に続きます。しかしゼロやんが出ると時間軸が狂うなぁ。パラレル西遊記(ドラ●もん)。そのうちどこか別のところに置くかもしれません。

●リリィ、というのはゼロ妻さんの名前ということで。当然今つけました。百合です。聖女の花ですね。貞節の誓い。



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