慕。・2



☆☆☆


「トチロー! ただいま。半日も一人で寂しかっただろ」


両手を広げて、ハーロックが敏郎を抱き締める。


「熱は引いた? もう起き上がっても平気なのか? 薬は貰って来た
 からな。これを飲んで、温かくして、あと二日はここでゆっくりしよう?」


額と額をこつんと合わせ、敏郎の前髪に鼻先を埋める。俺は「げ」
と、これ見よがしに舌を出してやった。


「わざわざ仕切り直しとは。過保護過ぎるぞハーロック。そんなに心配しなく
 とも、あれだけの声が出せれば充分だろうに」


──俺とハーロックが窓から表へ出て縺れ合うこと50秒。
「やめんかァ!」という敏郎の一喝でその場はあっという間に収まって
しまった。敏郎の声に、石のように固まったハーロックの表情。きっと、
一生涯忘れることはない。


さすがはトリの飼い主だ──感心半分。恐怖半分。


「べぇ。招かれざる客が何を図々しい。窓も割っちゃってさぁ、弁償しろよ。
 零」
 

ハーロックも負けじと舌を出してくる。──22にもなって何を幼稚な。思わず
頭にきかけたが、ここで挑発に乗っては年上である威厳がない。俺は小さく咳払いをして居住まいを正した。


「ふん、当然のことだ。まぁ、そもそもは貴様の要望どおりにしてやったに
 過ぎないのだが──弁償してやろう。後ほど請求書を『火龍』宛てに送って
 くれ」


「──…経費で落とすつもりじゃないよな、公務員」


ハーロックがじっとりと睨んでくる。「それほど安月給じゃない」と、俺は
どっかりその場にあぐらをかいた。


「このように自家用のシップでサルマタケ星にも来られる程度の余裕は
 あるのだ。先立っての戦いで、俺もクルー達も有給が貯まりに貯まってな。
 いい加減使ってくれと人事に文句を言われたのだ。武人の俺が世情の落ち着
 いた地球に居たってすることも無い。だから、様子をな」


「要するに暇持て余しちゃったってわけだろ。だから海賊やろうって
 誘ってやったのに」


いひひ、と笑って、ハーロックが俺の正面に座る。それを合図に、敏郎が
ハーロックの腕から擦り抜けて立ち上がった。


「さて。揃ったことだし、夕飯にするか。今日はあっさり味で纏めてみたのだが、
 よもや好き嫌いなどは無いだろうなウォーリアス・零殿?」


「いや──俺は特には」


「……トチロー、あれだけ休んでろって言ったのに」


俺の言葉を遮って、ハーロックが立ち上がる。茶碗を出しかけた敏郎の肩を
掴み、板敷きの床に膝をついた。


「病気の時くらい、何にもしなくて良いよって、俺言っただろ? それとも、
 零が来たから気を遣ったのか。零は大層なもてなしを期待するような男じゃ
 ないって、知ってるくせにどうして」


「別に。零が来る前から飯の支度はしていたど。お前、帰って来る時はいつも
 腹が減ってるだろう。飯がなければ騒ぐくせに。少々の病があったところで、
 お前が俺に気を遣うことなど何も無い」


敏郎が微笑む。先程、俺に見せた無機質な笑みとは違う、血の通った笑顔。
ハーロックが戻ってから、敏郎は不思議と回復したかのように見える。
優しく、温かく友を慈しんでいるかのように見える。

叡智の使徒“エルダ”。地球では既に神話の世界の話である。

無情にして万物の智を識る女神“エルダ”の寵愛を受ける20人。
彼らもまた、情を持たず、揺れる心を持たず、ただ解き明かすことに
その身を捧げる生き物だという。
愛さない。想わない。思わない。誰も。

叡智の使徒は何者にも無情。何物にも平等。

もはや神話のようにして語られてきた存在だ。地球では、誰も信じる者
のいないお伽話だ。
けれど、それは今、現実として俺の目の前にある。



少女は無限の眼と耳を塞ぎ、命あるもの全てを呪った。



全ての鼓動よ、沈黙してしまえ!!



かくして、少女は命の絶望を糧として、するすると自らの躯を宇宙に広げた。

そして、無名の女神は暗黒の女王に。



幼い頃、放蕩者だった父から聞いた話を思い出したのは、蒼白い敏郎の顔を
見た直後。無限の耳と目を持った優しい女神が、命あるものに絶望し、全てを飲み込もうとする話。



すぐさまに世界を光の中に戻し、暗黒女王を塵に戻そうとする神に、
女神の一人が進み出た。


表情を持たぬその女神の名はエルダ。万物の叡智を司る情無き女神。



父なる神に殺められようとしたその暗黒の女王の命を、智の女神エルダが乞うて女王は救われた。



暗黒女王はエルダに大いなる感謝を捧げ、
エルダの寵愛をもって生まれてくる者達に闇という名の祝福を与えた。


闇の女神の抱擁を。


冷たく、そしてどこまでも深い抱擁を。


彼女の闇の中でなら、エルダの寵愛を受ける者全ての命は
老いもせず、苦痛を伴う病に苦しむこともなく。



ただ──ひどく冷たい闇の中に、ゆっくりと沈んでいくという死を。




──それが、宇宙病なのだという。広い宇宙で、特定される20人だけが
侵されるという死の病。

調べてみれば、資料はあった。軍部のライブラリ、今は誰も手をつけないような埃まみれの書庫に一冊のファイル。地球人では最初で、宇宙では最年少の14番目の“エルダ”。


大山十四郎──惑星タイタンにて死去。享年34歳。
死因は不明。亡骸は検死解剖されることなく埋葬され、墓所も未だ不明。
ただ、医療惑星『メディカル』に残されていたカルテには、


『宇宙病』


とだけ記されていたという。


たったA4紙一枚に残された短い記録。カルテのコピーさえ添付されては
いなかった。全てが曖昧な──例えば人の記憶のように曖昧な情報。

知ってしまえば、確かめようという気になった。純粋な好奇心と、まさか
そのようなことはあるまいと、笑い飛ばしてしまいたくなる焦燥感。


あの敏郎に限ってと、そういう気持ちだったのに。


全ては打ち砕かれたのだ。俺の目の前では、余命幾ばくもない叡智の使徒と、
何も知らないその友が微笑ましいように睦み合っている。──彼の友は、誰よりも彼の身を案じているのに。そのことは、たった数度まみえただけの俺にでもわかるのに。


「だけど、トチロー」


ハーロックがなおも敏郎の腕を掴む。敏郎は、からかうように彼の髪を撫でた。


「無理するなよハーロック。飯喰わないでここに来たろ。ここから数万光年
 離れている『メディカル』まで飛んで、お前が腹を空かせてないわけがない」


「別に……腹なんて……!!」


ぐぅ。待っていたかのようにハーロックの腹が鳴る。ぐぐぅ、と訴えかけるようにもう一度。敏郎が吹き出した。


「それみろ。やっぱり腹が減ってる。汁物温め直すから、さっさと食器出し
 ちまいな」


「──…はぁい。了解っす」


渋々とハーロックは敏郎の背中を見送る。敏郎は再び踏み台に上り、小さな片手鍋をガスレンジにかける。ハーロックが、そっとその肩に顎を乗せた。


「今日のご飯はなんだ?」


「豚肉の梅肉焼きにぶり大根。里芋の白味噌煮にピーマンの煮浸し。水菜の塩
 漬けと豆腐の葛汁。零が良い酒を持って来てくれたからな。酒の肴にマグロの
 わさび醤油漬け。くすぐったいよ、ハーロック」


「うーまそぉ。俺、トチローの料理って好きだなぁ」


「喰えれば何でも美味いくせに」


敏郎が優しくハーロックに頬ずりした。ハーロックは嬉しそうに敏郎の肩を抱く。誰もが理想とする台所の風景が、俺の目の前に展開されていた。


──温かくて、穏やかな時間。この二人はずっとそうして生きてきたのか。


亡き妻のことを思い出す。彼女はこのような光景を望んでいたのだろうか。
上官に勧められて決めた婚姻。写真でしか知らなかった彼女の顔。
式の直前に緊急出動のコールが入り、タキシードのまま軍部へ走った。
誕生日にも、初めての結婚記念日にも、子供が生まれた日にも、彼女が自宅で跡形もなく消え去ったであろう時にも俺は宇宙で戦艦に乗っていた。


──いつも、儚い顔をしていた。責めもせず、詰りもせずに、彼女は──ただ。


ドアの前でいつも、俺を見送った。あるかなしかの微笑を浮かべて。今にも泣き出しそうな微笑を浮かべて。



いってらっしゃいませ、あなた。おかえりを、おまちしております──。



 べちゃ。


「零! ちゃぶ台拭けよ。トチロー一人働かせておけないだろ!」


俺の回想を、投げつけられた布巾が遮った。我に返れば、ハーロックが腰に手を当て、凝っと俺の顔を覗き込んでいる。


「な……なんだ」


「何だじゃないだろ。台くらい拭けって言ってるの! 俺は食器出さなくちゃ
 いけないし。お客さんでも友達は甘やかしてやらねーぞ。俺は」


そのまま、ふい、とハーロックは台所に戻ってしまう。俺は黙ってちゃぶ台を
拭いた。黒光りする木製のちゃぶ台。俺の中に4分の1ほど流れる日本人の血のせいだろうか。馴染みのない物のはずなのに、何故か懐かしい心持ちになる。
やがて、敏郎とハーロックが盆を持って戻ってきた。


「さぁーて、沢山喰っていってくれよ、零。俺の手料理が喰えるなんて
 光栄の至り。真の男なら残さず喰え。喰い尽くせ」 


鼻歌混じりに敏郎が俺の前に膳を整える。ハーロックが元気良く「いただきまーす!」と手を合わせた。


「こら、ハーロック。零がまだ」


「喰ったモン勝ちだろ。トチローの分はちゃんと取ってあるからな!」


そう言うが早いか、自分の皿の豚肉を一枚食し、俺の皿にまで箸を伸ばしてくる
ハーロック。俺は慌てて皿を引き下げた。


「き、貴様という奴は! 何と手癖の悪い!!」


「あーぁ、もう。勝手にしろ。零、うかうかしてると全部ハーロックに喰われる
 ど」


諦観の相で溜息をつき、敏郎が厳かに手を合わせる。次の瞬間、ハーロックの箸が俺の小鉢から大根をさらった。


「なッ……なんだとぉ!! こらトチロー、そういうことは事前にだな」


「へぇっへー大根もーらい! 代わりにピーマンやるよ零。ピーマン好きそうな
 顔だもんなぁ」


「馬鹿者ォ!! 煮られた大根がピーマンごときと比べられるか! 返せ! 返さ
 んと貴様の肉を貰う!!」


「あーッ!! 汚いよお前。返せ! 俺は成長期なんだぞ」


「そんだけデカくてまだ伸びる気なのかお前は!! 気味の悪い! ジャイア●ト
 馬●でも目指す気なのか!?」


穏やかで、静かなはずの食卓が、瞬く間に戦場と化す。一人黙々と箸を運ぶ
敏郎を尻目に、俺とハーロックは高速で箸を戦わせた。


「やった! 魚もーらい!!」


「ふん! 貴様の前から葛汁が消えたことに気付かぬようだなハーロック!!」


「甘いぞ零! 全ての決着は里芋でつけてやる!!!」


もはや食事なのか試合なのかわからない。しかしやるとなったら負けられないのが男に生まれたプライドである。ふと敏郎を見やると、彼はさっさと自分の膳を片付け、ハーロックや俺の空になった茶碗に次から次へと飯を盛っていた。

──何と勤勉な。病床にあって、これほどに細やかな心遣い。まさに大和撫子(タヌキのような男なのに)の鑑である。気付いた俺は感動し、ハーロックは「もう良いよ!」としゃもじを持つ敏郎の手を両手で包み込んだ。


「そんなに気を遣わなくったって良いって言ったろ? 別にご飯を盛って
 貰わなくたって、俺達はちゃんと飯喰えるからさ。トチローは寝ていろよ。
 隣の部屋に布団敷いてやるから」


「もう飯は良いのか?」


敏郎が凝っとハーロックを見上げる。ハーロックは、ぎゅ、と小さな親友を抱き締めた。


「飯は喰うけど……トチローがこれ以上動くのは駄目だ。だって、熱が出たん
 だろ? 熱があって、倒れたってドクターが。トチローは最近働き過ぎだよ。
 あまり根を詰めちゃ駄目だって、ヤッタランにもミーメにも言われてるのに」


「──…寝ている方が苦痛なんだ。背骨も痛くなるし」


ふて腐れてように敏郎が呟く。


「でも、ちゃんと休まなくちゃ駄目だ。トチローが働き者なのは俺が一番
 知ってるけど。働くのと同じくらい休まなくちゃ。無駄は必要って、トチロー
 はいつも言ってるじゃないか」


立ち上がり、ハーロックが玄関の隅に落ちていた土産らしき包みと
薬袋を拾う。「はい」と、俺の顔色を窺うようにして敏郎に差し出された
包みには、明らかに盗難品と知れる絹織物の上掛けが入っていた。

雪色の地に、紅梅の刺繍。一目で極上の品と知れる。


「……薬を貰ってくる途中で、海賊船団に襲われてる民間船を見つけて……
 助けるついでに海賊の方から頂いてきたんだ。寄り道はいけないと思ったけど、
 ほんの10分ほどだから」


良いよな、と敏郎を上掛けで包み、ハーロックは照れ臭そうに笑う。


「トチローがしてくれること、いつも感謝してるから。俺の腹具合心配する
 のと同じくらい、自分の身体にも気を配ってくれよ。薬を飲んで、温かく
 して。お前が少しくらい休んでも大丈夫だから、俺を信じて」


優しい眼差し。情に満ちた言葉。
まるで愛しい妻にでも対するように、ハーロックは敏郎を想っている。


「──…ん」


敏郎が、きゅ、と上掛けに袖を通した。れっきとした盗品だ。本来ならば、
没収して元の持ち主に返却すべき品だ。しかし、俺はどうしても言い出せずに
箸の先を噛み締める。

友として訪れたからか。それとも──。

共に過ごす時間の保証されぬ彼らの身の上に同情しているのか。俺に憐れまれ、目こぼしされることなどこの男達は望むまいに。


「じゃあ、支度してくるから待ってろよ」


ハーロックが敏郎の頭を一撫でして腰を上げた。畳まれた布団を抱え上げ、裸足のまま、すたすたと部屋を出て行く。


「難儀な性格だよ──あいつは」


溜息のように、敏郎が言った。独り言のようにも、俺に向けての言葉にも
聞こえる。
俺はただ、黙って彼の横顔を見つめた。


「何も知らされてないくせに、妙な勘ばかり働かせやがる。どれだけ心配
 してくれたって、俺が何も返してやれないことを知ってるくせに。どんなに
 大事にしてくれたって」


上掛けの裾を持つ手が震える。「俺は」と、敏郎が消え入るように俯いた。


「俺は──俺は俺であることを変えられない。誰かのためだけには生きられ
 ない」


「“エルダ”だからか? やはり、お前は」


闇の女神の、抱擁を。俺の言葉を待つことなく、敏郎が顔を上げる。
蒼白い顔。それは、電灯の明かりの下で、一層に不吉な色をして。


「……生きてはやれなくても。あいつの背中は見送ってやれる。あいつが
 追いつくのは──待っててやれると」


──想えば、不思議と怖くはないんだよ。零。


“エルダ”。情無き女神の寵愛を受ける20人。17番目のその男は、
そう言って儚げに微笑んだ。あるかなしかの、今にも泣き出しそうな微笑。



いってらっしゃいませ、あなた。おかえりを、おまちしております──。



不覚にも、妻の笑顔が重なった。最後に顔を見たあの日、まだ名もつかない
嬰児を抱いて、退院したばかりの彼女は微笑んでいた。

思えば、彼女は知っていたのかもしれない。俺の敗北と、自らの死を。
いつもいつも、覚悟をしていたのかもしれない。永遠の、別れを。

敏郎に尋ねてみたくなった。妻のように微笑む男に。この上もなく
残酷な問いを。


「なぁ、トチロー」


「何だ?」


「お前は──」



苦しくはないのか? 本当に怖くはないと言い切れるのか? 


自らの魂が原子に還る日を。全ての者と永遠に違えることを。


微笑むのは──愛しているからか?


熱情のようにではなく、ただ日常を織りなしていく者への愛。


愛しているから──引き留めも、泣き縋ることもしないのか?


何故そんなにも穏やかに。


なぁ、答えてくれ叡智の使徒。“彼女”は──…俺を。



「お前は──く」


「トチロー、布団敷いたよ。あとで白湯を持っていくから、もう
 寝ていろよ。いつまでも窓の割れたような部屋にいるのは良くないぜ」


とすとすと足音をたてて、ハーロックが戻ってきた。敏郎が立ち上がる。
「良いのか?」と問われて、俺は首を横に振った。尋ねるにはあまりにも残酷で、どうしようもない問いなのだ。これは。


「何だよ、二人で密談? 仲良くなったんだなぁ」


ハーロックが不快そうに眉を顰める。「まぁそうなのさ」と敏郎は彼の腰を
ぽん、と叩いて三和土に降りた。


「それでは、これで失礼するよ。ウォーリアス・零殿。最後までお相手出来ず
 に申し訳ないね」


「──いや、養生してくれ。今夜は静かに飲ませてもらうさ」


「お心遣い、感謝するよ」


ふ、と無機質な笑みを浮かべて、敏郎が退室する。



それが、最初で最後の彼と過ごした時間だった。この日を境に、俺が彼の姿を見ることは無かったのだ。もう、永遠に。














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