Titan Rendezvous・9
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☆☆☆ あの日の校庭に、ハーロックは立っていた。 夏の夕暮れ時。珍しく、暑い日。3年前の光景が、そのまま眼前に 広がっている。 「──……夢かな」 何故なら、ハーロックは10歳のハーロックではないからだ。 13歳の自分が、3年前の校庭に立っている。 珍しく暑い日。顔面がじりじりと焼けるようだ。ハーロックはフェンス側に 映えている若い桜の木の下に避難する。湿気のない北欧では、それだけで 随分体感温度が変わるのだ。 「ん──…」 ──なのに、熱い。ハーロックは膝を抱える。視界が、暑さで滲んでしまう。 顔だ。顔ばかりがこんなにも熱い。 熱い。暑い。アツイ──!! 顔を掻きむしってしまいたい。 頬に爪をたてたハーロックの手の甲に不意に、ひた、と冷たいものが触れてくる。ハーロックは指の間から、怖ず怖ずとその正体を確認した。 「……ポンポコリン」 桜の木の陰に隠れて教授達も気付かないフェンスの破れ目。そこから、 いつも餌をねだりに来ていた小さな生き物。 「きゅう」 少し鼻に抜けた声で、ポンポコリンが鳴いた。 ポンポコリンは仔タヌキだ。 3年前のあの日まで、ジュニアクラス4学年A クラスで餌をやっていた 小さな獣。 人懐っこくて、可愛かった。夢でも良いや、とハーロックは膝頭に上ってきたポンポコリンを抱き上げる。やわらかい毛皮。温かい肉。 小さな濡れた鼻が、ぴとり、とハーロックの頬に触れた。 「ひゃ、冷たいなぁ。ポンポコリン、気持ち良いよ」 「きゅぅん」 ポンポコリンが甘えた声を出す。胸に擦り寄られてハーロックは 微笑した。 温かく、やわらかい生き物。ポンポコリンは人懐っこくて優しい 仔タヌキだった。薄栗色の毛からは日向の香りがする。愛しさが、 胸に満ちた。 「ポンポコリン、優しいなぁ。お前。全然変わってないねぇ」 「きゅう」 熱い顔、頬に、ポンポコリンの鼻先が寄せられる。ぴと、と触れられるたびに、顔面の熱が引いていく。 「気持ち良い。ありがとうポンポコリン」 壊さないように、そっと。ハーロックはポンポコリンを抱き締めた。 温かい。可愛い──。 ★★★ 「うぇへへへへ……ポンポコリンの濡れた鼻ぁ」 すりすりすりすり。 「……おい、何か気持ち悪いぞ。こいつ」 意識のない少年に全身を撫でくり回され、敏郎は僅かに顔を 白くした。 土星が空の頂点に達する昼飯時。敏郎は昨夜の言葉どおり手製の解熱剤や 鎮痛剤を持参して『荒野の荒馬』亭を訪れていた。 少年の熱は、昨夜より少し引いていたものの、依然として彼の意識は 戻らない。 人より体温の低い手。この少年の熱を下げる役に立てればと思って触れて みたのだが。 「そうやなぁ。幼馴染みのワイから見ても、こんなにキモい顔 見たことないわ」 ヤッタランが腕を組んだ。──キモい。あまり好きな言葉ではないが、 確かにキモい、と敏郎は思う。 「ポンポコぉ〜」 完全にしまりの無い顔で、今も少年の大きな両手が、敏郎の背中や頭を 無遠慮に撫でている。 きゅ、と優しく抱き締められて。敏郎は彼の腕の中で目をぱちくりとさせた。 「……ポンポコって、なんだ?」 「タヌキやねん。ジュニアが10歳くらいの時にクラスで餌やっとったねん。 まだ仔タヌキでな。こーんなに小そうて」 ヤッタランが丸い手で大きさを示す。確かに小さい、と敏郎は頷いた。 「そんなに小さいならまだ子供だろう。ふぅん、飼ってたのか。こいつ、 動物が好きなのか」 「いや、飼っとったわけやのうて。うちの学校、やたら古くて大きくてな。 建物の周り全部森で。その森から、餌をもらいに来とったみたいやねん。 可愛い可愛いって、ジュニアはそらもう毎日飯の残り持って行くほど 可愛がってな」 「そのタヌキの夢見てんのか。どうりでしまりの無い顔してるワケだ。 成程、地球に帰ればそのタヌキが待っているわけだな」 敏郎は、そっと少年の左頬を一撫でしてやった。一目見た時から、敏郎は彼が地球から来たのだと確信していた。強い眼差し、甘い理想。今や、平和ボケしたあの星でしか見られない夢。 「──明日にでも、帰りな。今日も明日も変わらない生活。それは至極退屈 で平凡なものだが、誰にでも与えられるわけじゃない。タヌキの夢が見ら れるこいつは幸せ者だよ。星間軌道のチケット買う金、取ってあるんだ ろ?」 「うん。そらワイが確保してんねんで。ま、アンタの力が借りられんと わかったら、これ以上この星にいてもしゃあないモンなぁ。でも、 タヌキは待ってへんねんで。もう死んだねん」 「え──?」 意外なヤッタランの言葉に、敏郎は、がば、と身を起こす。少年の手は相変わらず、何度も何度も敏郎の体を撫で続けていた。時折、「ふこふこだぁ」などと抜けた寝言も洩らしつつ。 「……ふこふこじゃねーだろ。俺は」 離れようとすると、抱き寄せられる。ぎゅうぎゅうと熱の籠もった腕で 抱かれ、敏郎は途方に暮れた。やろうと思えば引き離すことも出来るが、 怪我人相手にそれは出来ない。 「こら、なぁおい。俺はタヌキじゃねーど。タヌキじゃ。ポンポコリン とは種の違う生き物だ。さっさと現実に目覚めてくれんかね」 「──…うぅん。ポンポコぉ」 いやいや、と少年が首を振る。固く閉ざされた眦から、一筋の涙が 零れ落ちた。 「ポンポコ……ごめんねぇ」 敏郎の顔を撫でながら、少年は、次から次へと透明な涙を零す。 「──こいつ。何だよ、タヌキに何を」 「ポンポコリンは殺されたねん。ジュニアの親父さんにかかった賞金を 狙って、ジュニアを人質にしようと攫いに来た賞金稼ぎ達に」 頭の後ろで腕を組み、ヤッタランが顔をしかめる。「賞金稼ぎ」と、 敏郎は彼の言葉を反芻した。 「賞金稼ぎって……こいつの親父、賞金首なのか?」 「うん、ジュニアの親父さんは有名な船乗りやねんで。宇宙を荒らす無法者 として、地球政府から莫大な賞金がかかっとる」 「ふぁ。莫大、ねぇ。で、誘拐されたのか。親父さんは捕まったのか? 海賊は今も昔も絞首刑と決まってる。こいつが強さを求めるのは そのためで──」 ──友人がいない、と言った理由はそれか。敏郎が言うと、ヤッタランは 「それだけやないねんけど」と俯いた。 「まぁ、親父さんのことは良かったねん。ジュニア、親父さんと同じ学校に 入って、そこはジュニアのご先祖さま達が代々住んどった地元の街やった から、殆どの人はジュニアにも、ジュニアの親父さんや母上さんにも好意 的やったし」 「なら、どうして」 「……みんなが恐れたんは、ジュニアの親父さんやのうて、ジュニア自身や」 ヤッタランがぽつりと洩らす。敏郎は少年の腕からそっと擦り抜けて、 俯いたままのヤッタランの顔を覗いた。 「どうして、こいつが恐れられる?」 「それは──…」 ──ジュニアが、人を殺したからやねん。 聞こえるか否かの僅かな囁き。けれど、敏郎には、ヤッタランの唇の動きで 読めた。 「人──殺し? 銃でか? それともサーベル?」 ──見えない。あり得ない。 今もベッドで眠るこの少年が、そのように血生臭いことに関わっている などとは到底思えない。おまけに、この少年の剣の腕は敏郎がよく知って いる。弱くはないが、強くもない。人を殺めるような鋭さなど、全く窺い知ることは出来なかったのに。 「信じられへんのも無理ないねん。ジュニア、昔はサーベルも銃も同じ くらい上手かったんやけど。10歳の時や、ジュニアを狙ってきた三人組 の賞金稼ぎが、ポンポコリン殺して、ジュニアのクラスメイト一人殺して。 激高したジュニアは──相手の重力サーベルで」 「お前、その時そこにいたのか? 三人だぞ。賞金稼ぎを生業にするような 輩を皆殺しにしたっていうのか? あり得ない。そんなの」 「ワイは、その場におらんかったけど……次の日、ジュニアは授業に出な くて、校庭の真ん中が真っ赤になっとったのは、知っとる」 それに、とヤッタランが申し訳なさそうに敏郎を見つめた。 「アンタはあり得んなんて言うけどな、ワイは──そうは思わんねん。 どこにでも、早熟の天才はおんのやで。何も、“エルダ”やのうても。 過ぎた才能がどんなきっかけで目覚めて、その人と周りを どう巻き込むかは、誰にも予測がつかへんねん。そのことは── 他でもないアンタが一番よう知っとると思うねんけど」 ヤッタランの眼差しは、敏郎の頬に貼られた真新しい膏薬に注がれている。 反射的にマントの縁を上げかけて、敏郎は「ふん」とベッドの上に置いておいた帽子を手に取った。 「……まぁな。でも、俺は別にそれほど酷い事態を招いているわけじゃ ないからな。昨日だって、上手く連中をまいてやったし。そりゃあ、少し くらいは危ない目にも遭うけど、どうってことはないね」 「そうやろか。そんなん、時間の問題とちゃうやろか」 「何が言いたい──?」 敏郎は眼を細める。「何でもないねん」と、ヤッタランが慌てた風に両手を 振る。それでも、「ただ──」と躊躇いがちに口を開いた。 「ただ──いつまでも同じ星の上で逃げていられるかどうか。ワイは…… “エルダ”ほど頭は良うないけど、このままじゃアカンことはわかるで。 秀でたものが、いつまでもそのままではいられへんのや。ちょっとだけ、 人より早く大人にならんとアカンのや。ジュニアは、ちょっと目覚める のが遅うて、血ぃが流れた。何も悪いことしてへん命が、犠牲になった。 アンタは……まだ、間に合うと思うねんけど」 「間に合う? 何をどうすれば間に合うっていうんだ。宇宙船でも 造って、とっととこの星を出れば良い?」 「そうやのうて……アンタを守ろうとする人達を、犠牲にせんで 済むっちうことがや。そら、アンタは賢い人やねんから、それくらい はわかってると思うねんけど」 「──…わかってるなら、言うなよ」 否。わかっていないのだ。ベッドに眠る少年も、目の前でこちらの様子を窺う少年も。全く、全然わかっていない。 この星には、まだ敏郎が必要なのだ。敏郎がいなくては──十四郎がいなくては。 ──親父さえ、生きててくれたら。俺だって。 早熟な天才と呼ばれずに済んだ。こんなにも誰かを避けるように生きずに済んだ。不意に、言葉にしてもどうしようもないことが口をついて出そうに なる。敏郎は帽子を目深に被り、窓の縁に飛び乗った。 「──…帰る。鎮痛剤と、解熱剤は併用しても大丈夫だ。食事の後に 煎じて飲ませてやれ。煎じるのは、この宿の主人に頼めばやってくれる」 「そら、ええねんけど。ワイ、やっぱり悪いこと言ったかいな。気分、 悪くしたなら、悪かったねんけど」 「良い。全部、本当のことだ。原因は全て俺にある。他人を巻き込んでは いけないことくらい了解してるさ」 「そんなに追い詰めるようなことは言ってへんねんけど。あのな、もし 良かったら、ジュニアが目ぇ覚ました時に──」 「関係の無いことだよ。お前らには」 ヤッタランの言葉を遮って、ふわり、と敏郎は二階から大通りへと身を翻す。 ──聞かない方が良いのだ。そして、何も語らない方が良い。深く関われば関わるほど、危険になる。地球育ちの13歳に、何が出来るなどと敏郎は思っていない。少年の言葉に不覚にも感情を揺らし、頬に残る傷をつけた。それだけでも、充分に悔いているというのに。 「あ──あのな。あのな。今日の夜も来てや! あ、明日もやで!! ワイ、 ジュニアがこのままやと不便やねん。不安やねん。怪我させた人が、怪我 した人の面倒見るんは当たり前やで──ッ!!」 敏郎が着地した瞬間、二階の窓からヤッタランが叫んだ。皆がその声に 反応する前に、敏郎は素早く裏路地に身を隠す。ヤッタランも返事は期待 していないのか、それきりバタンと窓を閉めた。ふぅ、と敏郎は胸を撫で下ろす。──誰にも、気付かれてはいないはず。 「……小賢しい奴だな。あいつ」 直情型の少年とは違うということか。良いコンビだと敏郎は思う。あの聡い ヤッタランでさえも、あの少年の真実の友たり得ないのか。本当に、少年は過ぎたる才で人を殺め、誰かに畏怖されるような存在なのだろうか。ならば、 敏郎と斬り結んだときの鈍さは一体何だったのだろう。少年は──心底本気に見えたのに。 ──考えちゃ、駄目だ。 敏郎はふと我に返って首を打ち振った。考えれば、興味が湧く。追究したくなる。敏郎が、“エルダ”が人物に興味を持つということは、必ずしも幸福ではない。何度も父・十四郎に言い聞かされてきたというのに。 「真実の友たり得ない人間を選ぶなよ。そいつは、お前も相手も不幸にする。 お前と関わる人間は、基本的にろくな目に遭わないと考えな。それでも 良いって約束出来る奴だけを選んで友達にしろよ──…?」 さもないと。そこで言葉を切って、父は笑うのだ。叡智の使徒“エルダ”の 表情で。選民意識からくる言葉ではない。事実、父・十四郎の親友だった者達は、誰もが厳しい現実と戦っているという。“エルダ”の顔をした時の父の言葉は、いつだって真実だった。 真実と現実が厳しいものだということを敏郎は熟知している。だからこそ、 あの少年は選べない。 選べない。絶対に。あんなにも透明な意志を持つ人間では。 きっと、真実と現実に砕かれてしまうだろう。それを思うだけで敏郎は 悲しくなる。 あの少年と、近いうちに距離を離れてしまう。それを思うだけで悲しくなる。 「どうして──……?」 自問する。考えるだけで、魂が。記憶よりももっと遠い場所にある何かが。 ──震えている。 敏郎は、暫しその場に立ち尽くした──。 ★★★ 「あ──あのな。あのな。今日の夜も来てや! あ、明日もやで!! ワイ、 ジュニアがこのままやと不便やねん。不安やねん。怪我させた人が、怪我 した人の面倒見るんは当たり前やで──ッ!!」 思い切り叫んで、ヤッタランは窓を閉めた。返答は聞かない。聞かなくても、 わかる。あの自尊心の強そうな男が、自らの責任を放棄するわけがない。 否。責任など無くても。彼が様子を見に来ないわけがない。不安だ、と言う 者を、意識の戻らない怪我人を放っておけるわけがない。ヤッタランは半ば 確信している。 あの大山敏郎という男、いかにも冷徹に振る舞ってはいるが、根は相当に慈悲深い。 優しい、と言い換えればジュニア風や──ヤッタランはハーロックの寝顔を 覗き込んで「くくく」と笑う。12年しか生きていないヤッタランの、人生の全てを賭けても良いと思った幼馴染みの審美眼は大した物だ。それを確認出来ただけでも喜ばしい。ヤッタランの読みは外れではなかったのだ。 キャプテン・ハーロックという男の旅立ちに、大山敏郎は必ず傍にいる。 ハーロックの勝負運は、絶対にあの“エルダ”という最強のカードを 引き当てる。 ヤッタランはハーロックの運の良さを信じている。そして、何より彼の人格を。純粋な夢と、嘘のない性格を信じている。あの“エルダ”のように優しい人間には、絶対に必要な友人だ。 ただ嘘をつかず、ただ誠実であることが、凡人にはどれほど難しいことか。ヤッタランはそれを知っている。だからこそ、ハーロックは誰よりも秀でているのだ。 誰よりも、最強を夢にし、“エルダ”を友とするのに相応しいのだ。 「でも頑張らんとアカンでぇ。あの“エルダ”は何や忙しいみたいやしなぁ」 枕元に肘をつき、ヤッタランはハーロックの耳元で囁いた。 ──そう、忙しい。あの“エルダ”は、何か、とてももどかしい様子 だった気がする。何か、追いつきたくても、追いつけない何かを。 「──…何を、待ってる……?」 呟いて。何もかもジュニアが目覚めなくては進まないなぁ、とヤッタランは考えるのをやめた。取り敢えず、旅行用に持ってきた鞄には、あと三つ、 未完成のプラモデルが箱ごと入っている。 「さぁ、ワイも今から忙しいねんでぇ」 バッハの『小フーガト短調』を鼻歌に、ヤッタランはごそごそと鞄の中身を 漁り始めた。 |
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