☆☆☆

今でも、あの時の出来事ははっきりと思い出すことが出来る。


あの時のわたくし達は、まだ13歳の少年で、ハイリゲンシュタットで唯一軍人養成コースを持つ全寮制の男子校、国立ヴェルナー大学付属学院の中学年で。


愛しい人よ、君は遠い東の国から来た留学特待生で、わたくしは君と同じ学力クラスですらなかったただのジュニアハイクラスの一年生だったね。


けれど、わたくし達は広い構内で偶然出会い、

(本当のことを言うと、わたくしは君とどうしても知り合いたくて、君のあとを
 追ってばかりだったのだが)

気の合う親友として青春を過ごした。あの頃、全寮制の構内で生活するわたくし達は、ある意味籠の鳥のようで、ある意味最も自由だったと今にしてみれば
思うのだ。


懐古的だと思うかい。けれど、本当のことだろう? 誰よりも聡明で、誰よりも
あの頃を愛していた君ならわかってくれるだろうと信じている。


もう戻れない時間こそが、晩年の人にとって最も慈しむべき時なのだと
いうことが。


あぁ、晩年などと言うなと怒る君の顔が浮かぶよ。けれど、君はわたくしより
ずっと先に逝ってしまったのだから、どうか怒らないでくれ。
今は、思い出すことだけが、わたくしと君を繋ぐ全てなのだから。


少し脱線してしまったか。
それでは大山、君と、わたくしと、二学年上級生だったウォーリアス・澪と、
その友人でわたくし達と同級生だった石倉時夫の思い出を記そう。
未成熟だったわたくし達が、実習訓練以外で初めて剣を抜いた時の話だよ。


そう、あれはわたくし達が出会って二カ月ほどが過ぎた頃だっただろうか。
北欧で最も過ごしやすい季節の夏が訪れて、君が教授達に内緒でこっそりと
隠れ家にしていた構内の裏庭にある壊れた温室に、わたくしが朝礼の席にいない
君を探しに行って──…




☆☆☆


「大山! 大山、やっぱりここにいる!」


予測通り、鍵がかかっていなかった。割れたガラスで手を切らぬように注意しながら、ハーロックは古びた温室の扉を開ける。

耳に慣れた蝶番の軋む音。既に温室としての機能を失って久しいその場所は、
今やヴェルナー学院きっての秀才である親友の手で造り替えられ、いつの季節も
快適に過ごせるように温度調整装置が働いている。

ガラスの天井からは燦々と陽光が注ぎ込み、親友・大山十四郎が気紛れに集めて
きた草花が、煉瓦に囲まれた花壇の中で好き勝手に生長していた。中には十四郎が品種改良した蘭などもある。七色の花弁を持つ、世界に唯一つの蘭だ。

だが、美しく咲く花を愛でる余裕もなく、ハーロックは花崗岩の敷き詰められた通路を歩く。かつかつと、磨き上げられた革靴が固い音をたてた。

広い温室の中心。モザイク模様の美しいその床に敷かれた畳と、手製のちゃぶ台。
その下で横になっている人影と、ちゃぶ台に向かって丸められている小さな背中を見つけ、ハーロックは、こほん、と咳払いをした。


「大山! どうして朝礼に出ないんだ。君が出ないと同室のわたくしが
 教授に叱られる。君はわたくしが定規で手をぶたれても良いと言うのかね。
 全く薄情な親友を持ったな、わたくしは。グローケン教授は君を目の敵に
 しているのだぞ。長いトイレだと言っておいたから、すぐに戻ろう」


一気に用件を告げて反応を待つ。「んー」と、低く小さな背中が唸った。


「そのグローケン教授なら立ったまま寝てるど。朝礼をする礼拝堂に手製の
 小型カメラをしかけたって言ったろう。マリア像の目の中だ。試運転に
 付き合えって誘ったのを断ったくせに。薄情な親友はお前だろ」


「一年寮の責任者であるわたくしがいないのでは、他のみんなに迷惑が
 かかる。君は本当に協調性がないな。そういうものは叡智と引き替えに母君の
 腹の中においてきたのか? “エルダ”殿」


「皮肉を言いたもうなよハーロック」


くにん、と十四郎が仰け反った。ストレートの薄栗毛が、さら、と彼の肩にこぼれ落ちる。大きく分厚い眼鏡と大きな口。少し上向きの小さな鼻。お世辞にも美少年とは言えない親友の容貌。同い年だというのに身長はハーロックよりも頭一つ分も小さい。学院の制服である黒のブレザーも、学年を示す赤のリボンもどことなくちぐはぐだ。全体的に似合っていないのだろう。

彼の全身が視界に入ると、ハーロックはいつも、ドワーフという生き物を思い出す。それは、宝石の発掘と金銀の細工を愛する土の妖精だ。否、妖精では
なかったか。まぁ、そんなことはどうでも良いのだけれど。


「まぁ良いや。長いトイレだって言ったなら、そういうことにしておこう。
 便所に籠もる俺を心配して、お前も遅刻。グローケンに何か言われたら
 そう言えよ」


十四郎の手が、きゅ、と袖口を掴む。「こっちに来いよ」と笑顔を向けられ、ついついつられてハーロックは笑った。誰にも打ち明けたことはないが、
ハーロックはこのドワーフのような親友が大好きだった。身長が低くても、容姿がそれほどに整っていなくても、誰よりも魅力的だと、そう思う。

──少し、変な感情かもしれない。考えることはあるが、それでも十四郎のことが大好きで、魅力的だと思うのだから仕方がない。いつものように「仕方がないな」と苦笑しながら彼に引っ張られて畳に座った。ふと手に当たる人毛の感触。
それで、ハーロックは十四郎の他に誰かがちゃぶ台の下で眠っていたことを
思い出した。


「誰か──寝ているようだが」


「あぁ、レイだよ。名門ウォーリアス家の御長男で、俺達よりも二学年上の
 ウォーリアス・澪。知ってるだろ。名前くらい」


「ウォーリアス・澪……。あの、有名な」


有名な、不良生徒だ。ハーロックは、そっと視線を落とす。指に触れていた茶色の髪。二学年上級というだけあって、横たわる彼はハーロックよりも幾分か身長が高いようだったし、寝顔は精悍な男の顔つきだった。不良、という噂の割に、
中々骨のありそうな美丈夫だな、とハーロックは思う。


「大山、彼と知り合いだったのか? わたくしには一言もそんなこと」


「うーん、説明するのが難しいんだが、俺が来た時にはもう寝てた。
 叩き出そうかと思ったんだけど、よく考えたらここは俺の隠れ家ではあるが、
 俺の所有地ってわけじゃないしな。別に寝てるだけで悪さもしないから
 構わないかと」


「全然難しくも何ともないだろう。勝手に来て寝てるだけじゃないか」


「俺の心の中では、色々と難しい葛藤があったのだ」


十四郎が、ぷくぅ、と頬を膨らませる。ハーロックは微笑し、「それにしても」
と澪の顔を覗き込んだ。


「──熟睡だな。彼」


「うーむ。取り敢えず気にしないという方向で。とにかく観ろよ。朝礼の
 光景結構寝ている奴多いんだよなぁ」


十四郎が小型テレビを覗き込んだ。彼の肩越し、ハーロックもテレビ画面を
覗き込む。礼拝堂の天井近くにあるマリア像の視線。成程、確かに俯いている
生徒が多い。


「……結構教授達も寝てるもんだな」


生徒達の列を見張るように立つ教授陣。見慣れた白髪頭が舟を漕いでいるのを
見つけて、ハーロックは首を傾げた。


「ん。あいつら、やることいい加減なんだよ。俺、あいつら嫌い」


十四郎の小さな頭が、こちん、と胸に当たる。ハーロックは軽く薄栗色の髪に
鼻先を埋めた。


「そうだな。大山はいい加減が嫌いだからな」


──太陽の、匂いがする。


「澪! 澪さん!! いるんでしょう。貴方が朝礼に出ないと僕が教授に
 叱られるんですよ。もう!」


不意に、乱暴な足音がハーロックの耳朶を打った。まだ、声変わりしていない澄んだ声が苛立たしげに張り上げられる。


「こんな温室に隠れたって、ここが貴方の隠れ家だっていうことはとっくに
 お見通しですからね!!」


「な──何なんだ? 今日は」


十四郎がハーロックの肩越しに身を乗り出す。ハーロックも背後を見返った。
繁る植物の間から見え隠れする、黒光りする革靴。きちんとプレスされたズボンとブレザー。リボンは赤。同級生だ。


「澪さん! まさかここにいないんじゃないでしょうね!!」

 
切り揃えられた亜麻色の髪。光を滑らせる長い睫毛。陶磁器人形のように整った
顔立ち。観葉植物の大きな葉を退けて、少年がハーロック達の前に立った。


「澪さん、さっさと出てきて──…あ」


ぴた、と少年の動きが止まる。鳶色の大きな瞳は、畳の上で身を寄せ合う二人を
くっきりと映して。


「──……失礼。人捜しをしていたものですから」


こほん、と小さく咳払いをして踵を返そうとする。「ま、待て待て」と十四郎が立ち上がった。


「なーにを誤解しとるのだ。俺とハーロックはそういう仲では断じてない。
 お前さんの捜し人はここにいるよ」


「あ」


十四郎の指差した先には、相変わらずグースカと寝息をたてている澪がいる。少年は僅かに目を細め、「全く」と人差し指で眉間を押さえた。


「──…呆れた人だ。だからあれほど徹夜麻雀はよくないと忠告して
 差し上げたのに」


長い睫毛を憂いげに伏せた次の瞬間、少年の靴底が勢い良く澪の頭を踏んづけた。
「ふごっ」と、靴底の下からくぐもった声が洩れる。


「い──痛い痛いイタタタタ。い、イシクラ、痛い痛い」


「目が覚めましたか? 澪さん?」


少年の顔に無垢な笑みが広がる。それは、とても人の頭を踏んづけるような
人間の顔には見えなかった。


「綺麗な顔してンのに。怖ぇ……」


十四郎が、ハーロックの背後に身を潜める。そんな二人に気付き、少年が無垢な
笑顔のまま会釈をした。


「あぁ、これはこれは。せっかくのお時間を無粋にもお邪魔してしまいましたね。
 僕は石倉、石倉トキオといいます。時間の時に、夫妻の夫」


石倉時夫。亜麻色の髪に鳶色の瞳の美少年。名前から察するに、どうやら
十四郎の同国人か。──とても同じ人類とは思えないな、とハーロックは
背中の親友を見返った。


「ふぅん、同郷かぁ。お前も留学生なのか?」


十四郎が小さな目をぱちくりさせて時夫を見上げる。「いいえ」と時夫が緩く
首を振った。


「確かに僕は日本人で留学生ですが、生まれはイギリスですよ。あの人と
 同郷なんです」


──あの人。時夫がびしっと指差した方向には、上半身を起こして顔を擦る
ウォーリアス・澪の姿があった。


「痛ってぇなぁ。石倉ぁ、お前いちいちやり過ぎなんだよ」


ギリシア彫刻のヘラクレスを思わせる、精悍な顔立ち。茶色の髪と同色の瞳。
長い手足を存分に伸ばして、澪が大あくびをして涙ぐむ。時夫が「ふん」と居丈高に腕組みをした。


「馬鹿面晒して寝てるから踏んづけられるような憂き目に合うんですよ。
 しかも、ここが貴方の隠れ家なんて大嘘こいて。この温室は、この方達の
 愛の巣じゃないですか! 失敬な人間になりたくなければ──謝って
 下さい!」


「え──…愛の巣?」


眠気にとろけた目で澪が見上げてくる。「違う!!」と十四郎が肩を怒らせた。


「ここは確かに俺の隠れ家で、ここにある植物も、畳もちゃぶ台も空調設備も
 俺がしつらえたものだが、愛の巣では断じてない! っていうか、俺達が
 デキてるように見えるのか? デキてるように!!」


「──んん。タヌキ? 何で仔タヌキが人間の言葉を」


ごん。寝惚ける澪の頭に、十四郎が容赦のない拳を見舞った。ハーロックは
慌てて親友の首根っこを捕まえて庇う。寝惚けて間抜け面を晒してはいるが、
彼は構内一の不良生徒なのだ。


「お、大山、大山。寝起きの人間にそんな乱暴をしては」


「良いんですよ。こんな人。一発や二発ぶん殴られた方が本人のために
 なるんです。それで、失礼なのですが、貴方達は?」


「あ。こ、これは失礼を」
時夫の言葉に、ハーロックは十四郎を離し、襟元を正した。


「わたくしは、ジュニアハイクラス一年のグレート・F・ハーロック世。
 こっちは、わたくしの親友大山十四郎。その、どうか彼の無礼をお許し願い
 たい。彼は、少し他人に遠慮のないところがあって」


「だから、構わないと申し上げたはずです。大方この人の悪い噂を聞いて
 萎縮されているのだと思いますが──まぁ、大概この人の悪い噂は真実
 なのですが──この人が物の道理もわからない人間なら、僕だってこんなに
 世話を焼いたりしませんから」


そうでしょう? と話を振られ、澪は寝癖に乱れた頭をがしがしと掻いた。


「まぁね。タヌキと言ったのは悪かったよ。でも、ここが君達の隠れ家なんて
 知らなかったんだ。とても居心地の良い場所だから──つい」


「ふん。謝ってくれれば別に良いんだ。どのみち、寝てるだけなら咎めや
 しないよ。眠たいのなら寝れば良い」


十四郎が、どすん、と座布団に座る。ハーロックもそれに倣って畳の縁に腰かけた。少し躊躇って、時夫も遠慮がちに靴を脱いで上がってくる。


「ストローマットですか。懐かしい。小さな頃、祖母の家に遊びに行った時
 のことを思い出しますね」


「おぉ、お前さんのお祖母さまは未だに自宅に畳を敷いているのか。
 この手触りの良さがわかるなんて粋だなぁ。よーし、気に入ったど。
 コーヒー飲ましてやる」


十四郎が嬉しそうに立ち上がった。「あ、俺にも」と、澪が右手を挙げる。
知り合って数分だというのに、彼らはすっかりとこの場に馴染んでしまっていた。
そして、それを全く違和感なく受け入れる十四郎がいる。

ハーロックは、新たな友情が築けそうな予感に、はんなりと頬を緩ませた。













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