★★★
魔地は鼻歌混じりにキッチンに立っていた。深夜の時間帯。皆眠りについて
いる時間だ。火龍から入った通信をハーロックに回した直後、ヤッタランも
眠りについた。今艦橋にいるのは眠らない異星の少女ミーメだけだ。
遠く、優しく、艦内のどこにいても聞こえる彼女の歌声。異星の言語で歌わ
れるそれは、何故かとても懐かしい。
多分、彼女が失われた故郷を歌っているからだ。失われた故郷。思い出すの
は生まれた星、地球ではなく、魔地がこの手で息の根を止めた故郷。
もう、二度とかえらない。イボウル星系第5惑星『女神の子宮』。全てを灰
に帰したときも、そのあとも、良心の痛みなど微塵も感じなかったあの星。
魔地にとっては無価値で無用だったあの星。
──滅べば、良い。いつだってそう思う。後悔はない。俺から一番大切だっ
たものを奪った星。一番愛していたものを蹂躙したあの星。
叡智の使徒『エルダ』の恩恵なくしては立ち行かない星。それゆえに罪を重
ねた星。
赦すことは永遠に出来ない。いつだってそう思うのに、ミーメの歌を聞くと
きだけは不思議な切なさに胸を奪われる。
楽しかったことも憶えているからだ。凄惨なことばかりではなかったからだ。
むしろ残酷だったのはほんの一瞬で、その前の俺は全てに満たされていたよ
うな気さえする。
9番目の『エルダ』。シーラ・ナゼグダー。黒く、銀色に輝く長い髪の。
わたしたち、すこし似てますね──。
首都の中心に建つ二重螺旋の象牙の塔。鮮やかな緑降る庭園で、彼女が囁い
た言葉を憶えてる。彼女に似た黒髪が嬉しくて長く伸ばそうと決めた日のこ
とを憶えてる。
宇宙最強を誇る宇宙機動軍『栄光の騎士団』の影。諜報・暗殺を司る『不死
身の騎士団』。役目は重く暗くても、あそこにいる者達は優しかった。
温かかった。彼女の歌を聞いていると、そんなことまで思い出す。
全部全部、俺がこの手で葬ったのだ。墓も無く、荒涼とした更地に全てを還
した。花を添えることも叶わない。
魔地はスープをかき混ぜる手を止めた。コンソメとオニオンとトマトのスー
プ。フランスパンにチーズを乗せて軽くトーストしたものを付ければそれは
美味しい夜食になるのだ。
異星の少女が艦橋で歌う。聴衆が一人もいないのでは寂しかろうと、彼はワ
インを携えて行くつもりだった。ふと、自嘲する。
罪深い──故郷殺しの大罪人め。何を一体嬉しそうに。
魔地・アングレット。殺戮者め。信念でも任務でもなく、ただの私怨で人を
殺した。
愛する女を解体し、プレパラートに切り分けて、試験管と培養液に投じた科
学者達をこの手で裁いた。彼女を追い詰めた自分自身の罪を他者の血で贖っ
た。
有罪無罪の分別無く。街一つ、星一つを死に追いやった。
そのお前が、一体何故異星の少女をいたわれると?
彼女の優しい切ない歌に心打たれる資格など、もうとうに無い。
金色のスープに自身の顔が映っている。白い顔。表情の無い人形の顔。
これで良いのだ。魔地は思う。何も感じず、何も想わず、砂塵のように
自分の全てを手放して。
いつか死ぬためだけに生きれば良い。そのために海賊艦を選んだのだろうに。
ゆっくりと、朽ちていくために。ハーロックは、決して良い顔をしないけれ
ど。
『いつか…全てが上手くいく日が来るよ。大事なものだって…亡くすばかり
じゃない』
魔地に手を差し伸べた少年の眼差しそのままに。大人になっていくあの男。
彼にはわからないのだ。スープを温めていた火を消した。彼にはわからない。
多分、まだ。
永遠に、取り戻せないものもあるのだと。救えなかったものの分まで、身体
は磨り減っていくのだということ。
赦されることのない過ちが、あるのだということ。何もかも取り戻せると思
い込むことが、希望なのだと魔地は思う。
魔地は、片手で顔を覆った。涙も──出ない。嬉しくても、悲しくても涙を
こぼさないこの身体は、彼の身体を構成するものが既に『ヒト』でない証な
のだけれど。
『女神の子宮』から生まれた、遺伝子操作と有機生体部品から為る人工の。
「捨てるの? 魔地」
発作的にスープ鍋を流しに投じようとした魔地の背後に、穏やかなハーロッ
クの声がかかる。全てを呑みこむような、理解するような声。ミーメの歌と
重なって、淡いハミングのようにも聞こえる。
「勿体ないな。一杯くれるか?」
「あ──あぁ。パン、焼けてる」
魔地がオーブンを示すと、「そりゃ良いや」とハーロックがキッチンに入っ
てくる。入り口には、見慣れないトランクが一つ。火龍から何か預かってき
たのだろうか。マグカップを出して魔地は振り向く。
「火龍で何かあったのか? 呼び出しくらってたみたいだけど」
「うん。ドクトルがね、ちょっと」
どこか親しみのこもった声に、魔地は目を丸くした。かつて機械化人に親友
を殺されたという彼は、機械化人と名の付くもの全てを忌み嫌っていたはず
だ。それこそ、大人から幼い子供まで。有罪無罪の分別も無く。
「零が治らないから困ってるって。トチロー、居残ってる」
そのうち迎えに行かなくちゃ。アルミ製のカップを受け取って、「もう2個出
せよ」と笑う。敏郎の分も取っておくつもりだろうか。魔地は自分用のと敏郎
のマグを取り出して、「スープは温かい方が」と念を押した。
「別に取っておくの構わねぇけどさ。保温器に入れときゃ良いんじゃねぇ
か? 深夜帯だし、他に誰も」
「違うよ。お客さん用の出してくれるか。あぁ──陶器じゃなくて、アルミ
の方が良いね」
オーブンからチーズのとろけたフランスパンを出してカップに入れる。オニ
オンスープはこう飲むのが美味いのだ。一口飲んで「うん、美味い」とハー
ロックが息をつく。
「魔地のスープは美味いね。トチローのつくるミソスープの次かな。三番目
は断然俺のつくるトムヤンクンかな。二日酔いに最適な、アレ」
「お前二日酔い知らずじゃねぇか」
ジト目で返しながら言われたとおりに真新しいアルミのマグカップを出す。
スープを注いで、パンを入れて。ハーロックに渡そうとした瞬間、入り口付
近でナニカ白いものがもぞもぞ動くのを目の端に捉えた。
「うわ?!」
驚いてカップを取り落としそうになった。ハーロックが慌てて魔地の手を
押さえる。
「なんだよ魔地。危ないじゃないか。こんな時間にキッチン汚したら、後で
片付けるのが面倒に」
「な──なんか動いた!! なんか白い…何だアレ?!!」
深夜帯の廊下には非常灯しかついていない。暗闇に足元だけを照らすセン
サーライト。銀色のトランクのすぐ傍でむぞむぞと芋虫のように動くそれは
ライトに仄暗く浮かび上がって──。
──なんだか、ゴーストみたいだった。
「何だって言われてもな……」
カップを魔地に渡してハーロックがぼりぼりと頭を掻く。彼が白い物体の
前にしゃがみ込むと、物体の隙間から、にょ、と二本の手が伸びた。背中に
回されたそれを煩がるわけでもなく、ハーロックは「おーよしよし。目が
覚めちゃったな」と、まるで仔猫にでも話しかけるような甘い声を出した。
「正確には何だ、じゃなくて、誰だ、だな。ほら、ご挨拶しなさい零」
「キス」
ハーロックの腕に囲われて。にゅ、と白い布(シーツだ。多分)から顔を出
したのは紛れもない。ハーロックと敏郎が先程赴いた火龍の長。
地球連邦独立艦隊司令、ウォーリアス・零。
ガーネットの瞳を好奇心に輝かせている。「キス」と呟いた宿敵をハーロッ
クは優しく背中越しに抱き締めて。
「零、キスは挨拶じゃない。──挨拶だけど、違うんだ。最初の挨拶は初め
まして、だよ」
抱き締めて、そっと頬を寄せたのだ。睫毛を触れ合わせるだけのフェザーキ
ス。微笑む零。魔地の背中に戦慄が走る。
「お、おおぉおぉおおぉおおお前!! ハーロックお前なんちゅうことしでか
すんだ!!?」
思わずカップを落っことした。「うわぁ」と声を上げてハーロックが空中で
それを受け止める。一つし損なって手袋にこぼした。「ぎゃあ熱い!!」と静か
な廊下に響く声。
「っだー!! 熱い!! そして臭い! 手が合成革とタマネギ臭い!! うわっ
ぺっ!!」
「何が臭いだ!! 呑気にお前──お、おま」
ハーロックの腕の中で。零は不思議そうに彼の顔を見上げるばかりだ。そし
て、ちゅっとスープまみれになった手袋に口付ける。「やめなさい」とハー
ロックが手を挙げて。
「零、これは臭いよ。美味くないし。飲むならこっちにしなさい。火傷しな
いように気をつけて」
「お──馬鹿!! 馬鹿ハーロック!!」
魔地は膝をつき、ハーロックの胸倉を掴む。カップの端を噛んでスープを
舐めていた零がびくりと肩を震わせた。
「お前、これはれっきとした誘拐だぞこの犯罪者──ッ!!」
「誰が誘拐だーッッ!! 人聞きの悪いこと言うなぁあぁ!!」
怒鳴りあう彼らを前にぶるぶると身を縮こまらせる。二人は一瞬視線を
交わし、がし、と双方で肩を組み合った。
「だってお前…いっくら艦長さんが記憶ソーシツであっぱらぱーだからっ
て……連れてくるのはマズいだろ。火龍と一戦やらかす気か? 敏郎が
聞いたら何て言うか」
「だから、誤解だって。頼まれたんだって。ドクトルにさ。零が俺を愛して
日常生活に支障をきたすから預かってくれって。トチローだって承諾済み
だぜ」
「シショウ? 失笑の間違いじゃねぇのか。それ」
「失笑でも良いとは思うけどな」
俺は誘拐してないよ。怯える零をしっかり胸に確保して耳に告げてくる。「ホ
ントかよ」と魔地は顔をしかめた。
「相手の喉下にサーベル突きつけて「こいつは預かるぜゲッヘッへッヘ」っ
てのは預かるうちに入らねぇんだぞ?」
「ゲッヘッへッヘって──どんなキャラだよ。俺」
「わたしの、すべてのひと」
囁き合う二人の間で、スープを飲みながら幸せそうに呟く零。タイミングが
良いというか悪いというか。うっかり、そうか…ハーロックがゲヘゲヘ言う
男でもアンタの「すべてのひと」かと視線が遠くなる。
「健気だなぁ…。いや、変な花の効力覿面だなこりゃ。敏郎とあのドクター
の手腕に期待するっきゃないか」
「当面はね。でも、俺は俺なりにやってみるよ」
スープを飲み終えた零の口元を拭い、ハーロックが立ち上がる。零がぎゅっ
と彼にしがみ付いたまま従った。腰を支え、トランクを持って出て行こうと
して振り返る。
「魔地、そのスープ、ミーメにも持って行ってやって。ワインかブランデー
をたらせば彼女でも飲めるからさ。今日のミーメの歌、ちょっと切ない。
誰かに聞いて欲しいんだと思う」
俺はちょっと手が離せないからさ。ハーロックがにへらと笑った。理解する
ような、受容するような声がミーメの歌の旋律に重なる。キッチンの入り口
から彼らの姿が消えたあと、「はじめまして」と言う零の声が聞こえる。「遅
いよ」と笑うハーロックの声。ミーメの歌。
それは、優しいハミングのように魔地の胸に染み入って。
「──了解。朝は遅めに起こしてくれよな」
彼は、一時罪を忘れた。
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