Plants Doll・6




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4世紀も前に『プランツ・ドール』は生まれたのだそうだ。


移民開拓惑星『ジュモー』。遥か昔、透けるような透明の瞳と薔薇色の頬を
したそれは愛らしくも妖艶なビスク・ドールを手がけたという名匠の名を冠
したこの星は、今でこそ何の変哲もない商業惑星だが、かつては人身売買で
栄えた華やかな奴隷市場、色街であったという。

人身売買。ドクトルは眉根を寄せる。その人間の命を、尊厳を真っ向から踏
み躙る商売が公的に禁止されたのは、実に一世紀程度前のこと。
長い宇宙の歴史からいえばつい最近のことなのである。

否、文化・文明レベルの関係で、未だ奴隷制度の絶えぬ星域もあるらしい。
結局、身近でないというだけで人が人を売り買いする生業というのは今でも
存在しているのだ。


だが、『ジュモー』は緑豊かで資源の豊富な星だったため、人身売買を様々
な宇宙公的機関が禁止した際に時流に乗って華やかだった色街を閉鎖し、人
の売り買いを止めた。別段、その時の政府が良心的だったというわけではな
い。他のものでも充分に食べていけるからだ。

むしろ人身売買を表立った商いとすることで受ける各所からの非難を避け、
宇宙通商連合から斡旋される他星からの観光客や宇宙船の物資補給などの
利益を選んだというべきか。

他に売るものがあるのだから、わざわざ不法の悪を犯すまでもない。つまり
はそういうことなのだ。



「奴隷といっても『ジュモー』が売る奴隷はちと特殊でな」


相変わらず目の前に辞書や検索用宇宙ネットページでも開いているかのよ
うな口調で大山敏郎が続ける。


「一般に売買される労働奴隷や性奴隷の類は一切販売しておらず、売って
 おったのはそう…いうなれば『観賞用愛玩奴隷』といったところか。労働
 させるわけでも性的な奉仕をさせるわけでもなく、ただ見て触って可愛が
 るといった目的でのみ売買されるものだ。『ジュモー』に集められる奴隷
 はどれも愛らしく、美しく、それはそれは清楚で可憐だったというど。
 そう、今の零のようにな」


「へぇ」


ハーロックが遠い目をした。その片腕には零がぴったりと寄り添っている。
至福の笑みを浮かべ、ガーネットのような瞳には傍らの男しか映していない。
すり、と肩に頬ずりされてハーロックは溜息をついた。


「トチロー、お前また近眼が悪化したんじゃないか。どこが可愛いんだ。
 これの、どこが」


デカくて重くて邪魔っけじゃないか。しかも年増だ。本人を横に罵詈雑言の
グランバザールである。「艦長はお美しいさ」と石倉が呟いた。ドクトルは
ただ頷く。「可愛いではないか」と敏郎が小さな目をトロンとさせる。


「愛らしい笑み、縋るような手、シーツに包まったその仕草。全く、お前達
 がよってたかってベッドに押さえ込んでいたのを見たときには驚いたど。
 よくもまぁ、罪の無い覚醒したての仔猫のような男にそんな乱暴が出来る
 ものだ」


「お前ずっこけてプチ気絶してたからことの成り行き知らなかっただけだ
 ろ。大変だったんだからな」


ホサの悲鳴で大暴れだったんだぞ。ハーロックが頬を膨らませる。その頬を
零が不思議そうに見つめ、つついた。睫毛が掠めるくらいの至近距離で、ハー
ロックの横顔を凝視している。端整な顔を斜め横断するようについている傷
をつままれ、海賊は「ぎゃ」と短い声を上げた。


「取れない。零、これは取れないから。お前どこまでアッパラパーになっち
 まったんだよ。これは傷! シールじゃないの。わかるか」


「?」


わからないようだ。大きな瞳をきょとんとさせて瞬いている。どうやら今の
零の脳からは個人の体験を司るエピソード記憶はおろか、世界のあり方や言
葉の意味などについての記憶を司る意味記憶までもが失われているようだ。
『傷』や『シール』の意味さえ理解出来ないのか、再びハーロックの傷跡を
引っ張っている。

そして、自分の顔を撫でてみている。彼にあるものが自分に無い状態が不服
なのだろう。「あぁ」とか「ふぅん」とか言いながら自分の顔に爪を立てる。
「やめなさい」とハーロックがその手を掴んだ。


「爪立てたくらいじゃ俺とお揃いにはならないの。わかるか零、やっちゃ
 駄目だ。わかるな?」


「ん」


にこ、と微笑んで手を下ろす。言葉の意味はわからなくとも、相手の動作や
表情で自分に何を求められているか理解しているのか。ならば、思考能力と
理解能力に損傷はない。言われたことを素直に止め、その後繰り返さないの
だから学習能力も健在だ。

ならば、失われているのはやはり記憶だけなのか。敏郎の言う『プランツ・
ドール』なる植物が零にどのような影響を及ぼしたのか。それは今後の説明
を聞く他にない。けれど、ドクトルは医師として、彼の頭の中が気になった。

どこに、ダメージを受けている。


視覚認知、聴覚認知は正常なのだろうか。

情動は? 今の彼は何を思っているのだろう。


目覚めたときには英語と銀河共通語を話したという。ならば、何故今は何も
話さないのか。

話す必要がないからなのか。それとも、話せる単語が限られているのか。

では周りを見て限られた単語を口にする状況を取捨選択しているのか。
限られた人物にのみ微笑みかけ、些細な状況の変化に取り乱す零にどれだけ
の思考能力が残されているのだろう。


明らかにしなくては。折り目正しくプレスされたスラックスの膝を掴む。ど
こに損傷を受け、どこが正常に機能しているかで今後の治療方針が変わるの
だ。


だが。ドクトルは眦を厳しくする。先程、零に触れようとして拒絶されたこ
とを思い出す。石倉の放った声に驚いていたというのもあるだろう。だが、
それ以上に彼はドクトルや魔地に触れられるのを嫌がった。

シーツを引っかぶり、腕から点滴の針が抜けるのも構わずに壁の端まで逃げ。

ハーロックに掴まれてようやくベッドに横倒しになったものの、やはりドク
トルの手や魔地の手は嫌がって。

敏郎の一喝後、一目散にハーロックの胸の中に飛び込んだ。そのあとはずっ
と彼から離れようとしないのだ。


まるで、彼が世界の全てだとでも言うように。



「そう急くな」


ドクトルの考えを読み取ったかのように傍らの敏郎が微笑んだ。「力を抜け」
と言われてようやく全身に無駄な力が入っていたことに気付く。

「ドクトルよ、恐らく貴殿の考えていることは全て『プランツ・ドール』の
 せいなのだ。惑星『ジュモー』で売買されておった観賞用奴隷は例外なく
 この植物から取れる物質を吸引、投与されておったようでな。『プランツ・
 ドール』を使用された者は、生意気盛りの子供でも──たとえ成人でも素
 直で従順で大人しい赤子か人形のようになったという」


「赤子」


「うむ。赤子だ。貴殿は零の認知能力や情報処理能力に問題が発生したので
 はないかと懸念しておるようだが…もっと簡単なことなのだ。赤子に戻っ
 た。そう思えば良い」


「乳幼児レベルにまで退行したという意味ですか」


「退行という言葉を使うのが正しいのかどうかはわからぬが、近くはあるな。
 言うなれば、今の零は生まれたばかりの雛なのだ。雛は一番最初に見たモ
 ノを親と思い込むと言うであろう。零が目覚めたとき、ハーロックが一番
 距離を近しくしておった。だから、今の零にはハーロックが自分の親か世
 界の創造主とでも認識されておるのであろう」


「My masterって言ったぞ」


ハーロックが補足する。それに追従するように零が「My master」と呟いた。
目尻をうっすらと朱に染めて、幸せそうに「わたしの、すべてのひと」と続
ける。


「あぁ…」 石倉が頭を抱えた。


「どうすれば良いんだ…。こんな艦長、正視に堪えない」


「目、つぶってれば?」


魔地が一人掛けソファから身を乗り出して石倉の肩を叩いた。慰めているつ
もりなのだろう。「あぁそうするよ」と石倉はげんなりと彼の手を叩き落す。


「どうせ他人事なんだろう。お前達にしちゃ」


「そりゃ他人事だろ。少なくとも、俺にしちゃ」


「俺だって他人事にしたいぞ。おい」


擦り寄られ、耳元で甘く「わたしの、すべてのひと」と囁かれてハーロック
が口元を引き攣らせる。それでも零を乱暴に突き放すようなことはせず、背
中を撫でてやっているのだからこの男の懐の広さは計り知れない。

冷酷で粗暴に見えるが、真実は情の篤い優しい男なのだろう。平素、零の前
で素っ気なく、傲慢に振舞うのは『海賊』という己が属性のためか。

連邦正規軍の旗を掲げて逆賊を討つという零の立場や気持ちを、彼なりに理
解し尊重しているのだろう。ドクトルは、零が身を委ねる相手が彼で良かっ
たとほんの少し安堵した。彼は、ここにいる誰よりも正確に的確に今の零に
順応出来ている。


「お前の触り癖は相当だからな。零の倒れたところが惑星『ジュモー』と
 最初に聞いておればむざむざ行かせはしなかったさ」


敏郎が溜息をついた。「触るのはマズかった?」とハーロックが零の背中か
ら手を離す。


「もう遅い。『プランツ・ドール』という花はな、最初にも言ったが400年
 前に遺伝子改良によって生まれた新種の花だ。原種はダチュラと呼ばれる
 多年草ナス科の植物で、根・茎・葉・花全てにアルカロイド物質を含む有
 毒植物。喰えば神経系に麻痺を起こし、痺れや意識混濁、幻聴・錯乱など
 の諸症状を示す。だが、『プランツ・ドール』はこれの強化版でな。喰わ
 ずとも、人の意識を混濁・喪失・譫妄状態に陥らせる」


「喰わないって、どうやって?」


「摘むのだ。花を摘むその瞬間。漏斗のような花からな、こう花粉がぶわっ
 と」


友の合いの手に敏郎はノッてきたのか手振りをつけて説明する。「ぶわっと」
とハーロックは敏郎の手を避けるようにソファに身を埋めた。


「噴射されるってか。じゃあ、零は花摘んでこうなったってワケ? 女の子
 じゃあるまいし、そんな馬鹿な」


「拾い食いより零らしいであろうが。それにあながち馬鹿なこととも言い
 切れん。文献によるとな、この花はえもしれぬ好い匂いがするらしいのだ」


「匂い」


「うむ。直接嗅いだことはないからな、文献頼りの表現になってしまうが…
 こう、甘く艶めかしい濃厚な香りが」


「じゃあ零は匂いに惹かれて」


「恐らく。そして、毒性の強い花粉を思う様に吸引した。一瞬にして意識が
 奪われたのは想像にかたくないことである」


「では、意識を失っている間に毒が脳にまで影響を」


ドクトルは身を乗り出した。それはどのような影響なのだ。大切なのはここ
からである。

「うむ」 敏郎が表情を固くして腕を組んだ。


「俺は医学に明るくないのでな。やはり文献頼りになってしまうのだが、
 確か…その本によれば『プランツ・ドール』の花粉に含まれたアルカロイ
 ド物質は、神経系を麻痺させるだけでなく記憶中枢にまで害を及ぼすと。
 見当識の障害を引き起こすようだな。ふむ、そういった効用に関しては
 ヴードゥ教のゾンビパウダーにも似ておるな。いや、アレは解毒剤か……。
 ゾンビパウダーに使われる毒はテトロドトキシンというものでアルカロ
 イドとはまた別の」


「トチロー、脱線してる。脱線してるぞ」


「おぉ」


ハーロックの言葉に敏郎は手を打ち、「そういうことなのだ」と話を括った。
聴衆一同から溜息が漏れる。話の内容が難しい上にあちこちに脱線、中断を
繰り返していたため何を説明されたのか全くわからなかったのだ。


「つまり」 ドクトルは自分の思考を纏めるためにも声を出す。


「我々が補給に立ち寄った惑星『ジュモー』には、4世紀前に開発された、
 奴隷をあたかも人形のようにしてしまう『プランツ・ドール』という遺伝
 子改造植物が自生していたと。この植物は強いアルカロイド物質を含む毒
 性を持ち、摘み取られた瞬間、花粉を噴射するという特徴も持つ。これを
 吸引した者は一瞬で意識を喪失。その間に毒は脳にまで到り、吸引者の記
 憶中枢──最悪見当識にまで障害をもたらす。つまりは、人を何もわから
 ぬ赤ん坊同然にしてしまう、と。そういう理解の仕方でよろしいのでしょ
 うか」


「うむ」


ケントーシキって何だよ、とハーロックが手を挙げた。「そんなことも知ら
ないのか」と石倉が眉を顰める。


「現在の時刻や年月、自分の現在位置なんかを把握する能力のことだ。今の
 艦長は…少なくともお前以外のことはどうでも良いように見えるから、今
 が何月でも何時でも構わないんだろうさ。自分のことなんて……全然忘れ
 てる」


俺達のことも。切なそうに向けた眼差しは、零の笑顔であっさりと打ち砕か
れていた。火龍の主、地球の希望はハーロックの気密服にある髑髏の刺繍が
気になるのか、しきりにつついたり撫でたりしてみている。

「よしよし」 ハーロックが溜息混じりにその頭を撫でた。


「零がどういう状態なのかはよくわかったよ。でも、一週間も寝てるなんて
 …これも毒の影響なのか? 俺の触り癖とどういう関係があるんだよ」


「お前の触り癖は度を越しておる」


敏郎がソファに深く身を埋めた。寝間着の裾から小さな足をぷらぷらと出す。


「西洋風とでも言うのか? キスしたり、ハグしたりするではないか。『プ
 ランツ・ドール』で眠らされた奴隷達はな…意識下に主に対する絶対服従
 が刷り込まれるそうなのだ」


「目が覚めて、一番最初に見た人ってヤツか?」


零はハーロックの膝に擦り寄り、またも「あぁ」とか「ふぅん」とか言って
いる。彼らしからぬ、どこまでもマイペースな行動。優しい動きでシーツを
かぶせてやりながら、ハーロックが声を潜める。敏郎も、合わせて声を潜め
た。

「それだけではない。条件が幾つかあるのだ。眠らされて、一番最初に見た
 人物を主と思うのなら、奴隷売買する商人や、飼われた先の使用人を主と
 思ってしまうこともあろう。開発当初はそういうこともあったようだがな。
 『ジュモー』で売られる観賞用奴隷達はそれは高い値段で取引きされるの
 だ。大金を払ったのにこの体たらくは、と苦情を受けて、科学者達はいっ
 そうの改良に励んだらしい」


「じゃあ、俺は気付かないうちに幾つもある条件をクリアしてたって
 こと?」


「そういうことになるな。まず、条件としては心音だ。主候補は眠っている
 奴隷に自分の心音を聞かせる。それが覚醒への第一歩だ。そして、次に重
 要なのは体温。こう…腕に抱くとかすると体温が伝わる。それが毒で飽和
 状態にされ、譫妄している奴隷の意識を取りまとめる。そして仕上げは
 ──『名前』だ」


「名前」

「名前を呼んでやるのだ。買ったときについていた名前でも、自分でつけた
 名前でも良い。奴隷だけの…奴隷を他と選別する呼称を呼んで起こしてや
 るのだ。主の『心音』、主の『体温』、主の『声』と与えられた『名前』を
 キーワードに奴隷は目覚める。そして目覚めた最初に囁くのだ」


「私の、全ての人……」


ハーロックが神妙な顔になった。「統べての人」かもしれんがな、と敏郎が
応じる。


「それで売買が成立する。ロマンティックな方法であろう? いかにも、
 観賞用奴隷などを購入しようと思う典雅な金持ちの気に入りそうな手続
 きである」



「…完璧にこなしきってたな」



魔地が気の毒そうにハーロックを見つめた。「あぁ、怖いくらいに完璧だっ
た」とハーロックが俯く。


「抱っこもしたし、名前も呼んだし……。トチローよ、お前、そういうこと
 はもっと早く言ってくれないと」


「過ぎたことをどうこう言っても始まらん。と、いうかハーロックよ。
 お前こそこれを機に反省し、ベタベタと触りたくるのをやめるのだな」


「……まだ朝のキスもしてないのに?」


「するな。ここをどこだと思っておる」



「キス」



零が、にょ、とシーツの中から顔を出した。無垢な好奇心の眼差しを向けら
れ、ハーロックが「あぁ」と嘆息する。


「わかった。わかったよ。反省しました。もう迂闊に寝てる人を触ったりし
 ません。零、やめなさい。キスはしないぞ。そういうのはナシ! わかる
 な?」


「キス」


「……お前、元に戻ったら死にたくなるぞ。絶対」


片手で顔を覆いつつ、笑顔で手を伸ばしてくる零を優しく拒絶する。「とに
かく」とドクトルは立ち上がった。

「一週間ぶりの覚醒なのです。『プランツ・ドール』なる植物の影響も踏ま
 えて、身体のデータに何か変化があるかもしれません。早速検査を」

「待てよ。一週間ぶりに目ぇ覚ましたんだぜ? もっと…シャワーとか、
 食事とかあるだろ。なぁ零、お腹空いてるよな。点滴だけじゃもつわけな
 い」


「いいえ、データを取るには胃の中に何も入っていない方が効率が良いので
 す。それに、シャワーの必要はありませんよ。私が毎日清拭しておりまし
 たから」


「一刻も早く検査を…か? さすがだねドクター。機械化人のセンセイは発
 想からして大層ご立派だ」


ハーロックの瞳に宿る敵意。険しくなった「すべてのひと」の表情に、零は
起き上がり、不安そうにドクトルとハーロックを交互に見比べる。


「機械化人でも生身の医者でも同じ決定をするでしょう。冷酷に思われるか
 もしれませんが必要なことです」


「俺はそうは思わないね。特に今の零にはだ。こいつの頭ん中は真っ白けで、
 アンタのご高説が通じるとは思えない。目が覚めて、ご飯も風呂も…人間
 らしいこと全部後回しで検査台に乗せられて数字を取られることに不安
 を感じないとでも?」


「確かに…恐れられるかもしれません。けれど、これは一刻を争う事態なの
 です。早く解毒の方法を解明しなくては──貴方は医師ではない。この方
 の心身に対しての措置については私に任せて頂きたいものです」


「俺は機械化人とは違うぜドクター。零もだ」


憎悪にも近しい光がハーロックの眼に宿る。彼は機械化人を憎んでいるのだ。
今にも立ち上がり、サーベルを抜き放ちそうな彼に、ドクトルは負けじと眦
を上げる。何と言われても、医師には医師の正義があるのだ。

患者のために、貫かなくてはならない信念が。



「よさんかハーロック」



二人の均衡を崩す叡智の使徒の声。ハーロックを覆っていた禍々しい気が拡
散する。暫しの間何か言いたげに敏郎を見つめていたが、やがて小さな溜息
と共に肩をすくめた。


「Ja,トチロー。ドクトル、アンタの言うとおりだよ。俺は医者じゃないし、
 この艦の関係者でもなかったな。零に関する決定権は俺にはない。了解し
 たよ」


「………」


不安げにする零に慈愛のこもった眼差しを向けて立たせる。まだ不安定な身
体を支えてやり、ハーロックは「お行き」とドクトルの方に零を押しやった。


「わたしの、すべてのひと……?」


「零、あの人はお前のお医者さんだよ。何も怖いことなんかない。彼がする
 ことに全て委ねるんだ。お前の良いようにしてくれる。わかるな?」


「………」


「大丈夫だ。行きな」


「………」


こくり、と零が頷く。先程押さえつけられた恐怖が残っているのだろう。幾
分か顔色を悪くしてドクトルの方へと足を踏み出した。シーツの端を踏み、
崩れかかる身体をドクトルは優しく受け止めてやる。


「あぁ……」


「大丈夫です、艦長。必ず貴方を完治させましょう」


「わたしの、すべてのひと……」


耐えられない。そんな眼差しをハーロックに向ける。何故他の者の手にやっ
てしまうのだ、と、大きな瞳には僅かばかりの抗議が宿って。


「零、心配ないさ」


ハーロックは微笑み、気密服からスカーフを抜き取った。零を包むシーツを
少しだけ落して零の腕を取る。クリアグリーンの病人着から伸びた腕。暴れ
て点滴の針を無理に抜いた傷がまだ生々しく鮮血をしたたらせていた。


「怖くない。これは…お守り」


「すべての、ひと」


「大丈夫。全部思い出したら──ここはお前の家だよ零。お前が、ここの
 全ての人だ。そして…統べての人だよ」


腕を伝う血をそっと拭き取り、傷口に唇を押し当てる。その感触に、零が震
えた。頬に甘い朱がともる。


「キス……?」


「あぁ、キスだ。お前の血は綺麗だね。思ったとおり、とても味が良い」


「お前は吸血鬼か」


石倉が呟く。だが、海賊は気にも留めず連邦軍将官の腕にスカーフを巻いて。


「次に会うときは…お前が全部取り戻していることを祈ってるよ」


鳶色の瞳と薄い唇に仄暗い笑みが浮かぶ。慈悲に満ちた目と深淵に身を浸す
獣の殺気と。どちらが彼が零に向ける本当の気持ちなのだろう。ドクトルは、
ふと思う。


優しい男だ。そう思う。だがそれ以上に恐ろしい男。

相反する性質が彼の中には無理なく同居している。良くも悪くもイノセント
な零には無い、アンビヴァレンスな魂。


「それじゃあドクトル、ホサ。零が平癒したら伝えてくれ。このハーロック
とデスシャドウ号はいつでもお前との決着を望んでいる、とな」


「か、帰る気か?!」


「当たり前だろホサさん。俺達は海賊なんだぜ? 連邦軍の艦に長居は無用
 だ」


魔地が「ひしし」と立ち上がって退室する。敏郎が「では」と立ち上がった。


「零については…差し出がましいようだがDrジャック・クロウヴァがお戻
 りになるまで俺が力を貸すと約束しよう。ハーロック、異論は」


「無いよ。トチローはトチローの好きにして良い。零が元に戻るのは俺の
 望みでもあるからな。思うように埒を開けな」


「了解。ドクトル? よろしいかな」


「えぇ…叡智の使徒殿のお力を借りられるなら…こちらから頭を下げたい
 くらいです」


「では俺は一端戻るが…貴殿のために専用回線を開いておこう。『プラン
 ツ・ドール』のことも引き続き調べてみるので貴殿は零の身体データを隈
 なくチェックして頂きたい」


「はい。私も専用回線を開いておきます。何かわかったら…通信なりメール
 なりを」


「うむ。ではお暇させて頂こう」


敏郎が一礼して退室する。ハーロックが鼻歌混じりでその背に続いた。
もう、零には見向きもしない。自分の手を離れた瞬間興味が失せたというこ
とか。

何て恐ろしい──無法の者達。彼らに階級は無く、各々が各々の意思で動い
ている。自由の者達。


それは、義務感や忠誠心などを遥かに超える強い力だ。追従することを知ら
ない者達。そして、それを統括していくのは。



「それじゃあドクトル。俺達も忙しいんだよ。これにてAufwiedersehen」



零をよろしく、と海賊の長は来たときとまるで変わらぬ剣呑な一瞥をくれて
立ち去っていった。「こら待て、今度はどこを襲う気だ海賊」と石倉が後を
追って行く。

彼らの姿が消えて初めて──ドクトルは戦慄した。


これが、零の敵なのだ。



「わたしの…すべてのひと……」



零が追うような素振りを見せる。その肩を強く抱き寄せて。
ドクトルは、メディカル・ルームへと足を向けた。




















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