死と乙女・1





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思い出しているのか──夢なのか。時折区別がつかなくなるほど頻繁に、目
を閉じていると浮かんでくる光景がある。

それは、14歳の頃の記憶。

やわらかく日に透ける硝子の空間。小さな温室。
白く儚く揺れる花。靴底に感じる芝の感触。濡れた土の香り、髪を撫でる微
風。

目の前には──墓碑。刻まれているのは父の兄の名。二十歳になるかならな
いか、成熟も未成熟もさだかでないままに空に還ったという、父が唯一肉親
と認める人。


『Alfred・C・Warriors』


顔も見たことのない伯父の墓碑。白大理石の滑らかな光沢は、いかにもこの
静謐な空間に相応しい。

春の日のような金髪と。夏の空のような蒼い瞳。秋の葉のように穏やかで、
冬の処女雪のように白い肌の。

ウォーリアス最後の純血種。アルフレッド・コスモ・ウォーリアス。
天使のようだったと、彼を知る人は言う。地上で、寝台の上で眠るより、空
に還るのが何より相応しかったと言う。

ウォーリアス最後の。最後の金色の髪と蒼い瞳。



ではわたしは?



ゆっくりと、融けていく虹色の蜥蜴。それは蝋で出来た精巧な細工物だ。天
に還る龍。ウォーリアスの墓に添えられる蝋燭。



ではわたしは?



天に還る龍。炎に包まれて融けていく。
気化した蝋の香りとともに、“わたし”はふわりと大気に浮かぶ。



ではわたしは?



ここに立つたびに問いかける言葉。ウォーリアス最後の純血種。顔も見知ら
ぬ父の兄。優しい金髪と蒼い瞳の。知っているのはそれだけだ。



ではわたしは?



父は『軍神』と呼ばれている。血統主義のこの国で、あの人は濃茶の髪と瞳
を持って、到底誰にも追いつけない速度で上り詰めた。『光』という名その
ままに。一条の雷鎚のように。

『ラスト・ウォーリア・レイ』。地球最後の守護戦闘神。わたしの父はそう
呼ばれてる。



ではわたしは?



最後のウォーリアス。地球最後の守護戦闘神。



ではわたしは?



『なにものでもない』という名を持って。金色の髪と蒼い瞳は持たぬままで。



ではわたしは?



蝋燭が、ゆっくりと融けていく。天に還る龍。地に落ちる鱗。
これは…蜥蜴だ。これは、わたしだ。

足元には大理石の墓碑。中で眠るのは空の棺。

がらんどうの永遠の眠り。融けていく虹色。


これは、あまりにも無機質なわたしの心と体。


だからいつもここにいるのだろう。ここで空虚になった肉体を俯瞰する“わ
たし”も還りたいと望んでいる。
白大理石に降り注ぐ光。小さな温室。小さな平和の園。

足元には、空の棺。還りたい。この──濡れて優しい土の中に。



「ねぇ」


不意に、耳のすぐ傍で声がする。それは高くもなく低くもなく、成熟と未成
熟の狭間で揺れる甘い声だ。

変声期前の少年の声。少し驚いて身を引いた。こんなところに人が入ってく
るなんて。


「ねぇ、泣くなよ。お墓、悲しいのか?」


「……ないて、ない」


やわらかな光の中、少年の輪郭は驚くほど明瞭だった。年の頃は10歳ほど
だろうか。鳶色の髪、大きな同色のその瞳。声を聞かねば少年とはわからぬ
ほど整った顔立ち。すらりと伸びたしなやかな肢体。

資料映像で見た、肉食の獣を思わせる。ヴェルヴェットのダークスーツを乱
暴に着崩して、少年は「そう?」と表情に似合わぬ未成熟な声でさえずった。


「俺は…君が泣いてると思ったから声をかけたんだけど。一人で泣くのはね、
 寂しいよね。誰かいてくれる方が絶対良いもの」



「……だから、泣いてない」


「うん。涙、出てないね。でもそんなのなくても泣けるんだ。本当に悲しい
 とそういうの出なくなるもの。俺はちゃんと知ってるんだ」


「君は──?」


庭園では、パーティが行なわれている。沢山の人が来て、朝からずっと取り
とめもない話ばかり。捕まれば、相手が一体何を話しているのかわからずに
ただ嫌な気分になる。どうして笑っているのか、どうしてこんな子供相手に
卑屈なことばかり言うのか。初対面なのにどうして褒められるのか。何もわ
からなくて怖いばかりだ。だから、ここに立っているのに。


「アイツらは、臭いね」



こちらの質問など全く意に介さず、少年は頭の後ろで腕を組む。曇硝子のそ
の向こう。パーティの喧噪を見透かすような眼差しで「とても臭いよ」と軽
やかに言う。


「さっきまであっちにいたんだけどさ、アイツらの言うこと、全然わかんな
 い。みんな自分のことばっか。自分の身分の安定とか、出世とか…誰それと
 付き合うと得するとか、損するとか。そんなことばっかり。握手をしても、
 約束しても自分のことばっかりだ。汚いよなぁ。そういう自分ばっかりの奴
 らからは腐った肉の匂いがするよ。知ってる?」


「腐った…肉」


酷い言いようだ。けれど、少年の瞳には淀みがない。硝子の向こうで酒を飲
み、歓談をする誰とも知らぬ大人達の全てを遥か高みから軽蔑するような傲
慢な態度。何故か、胸が透くような気持ちになる。


「誰かのためになるように生きられないなら──自分の信念も貫かないで
 誰かに迎合するんなら…生きてても死んでるのと同じだね」


「酷いこと……言うんだな。子供なのに」


一応この少年よりも年上なのだ。こんなこと、他の大人の前で言えばどんな
騒ぎになるかわからない。少しだけ表情をきつくして忠告してみる。けれど、
少年はまるで狼のように笑って。


「子供っていうのは、いつでも大人をケーベツしてると思うけど。まぁケー
 ベツされる方が悪いのさ。ちゃんとお手本になってないってことだもの。尊
 敬出来る大人は少ないね。綺麗な宝石とかが貴重なのと同じさ。良いものは
 少ないよ。ん…少なくともあの中にはいないね」


みんな立派な服着てるのになぁ。あの太鼓みたいに出っ張った腹には、腐っ
た肉に蛆が涌いてる。


ふふふ、と少年はいかにも楽しそうに髪を揺らした。その無邪気さが、少し
怖くなる。子供の姿をしてるのに、彼はどことなくそれを超越している。そ
んな気がして、距離を取る。


「君の…父上か母上はどこ? 迷ったんなら、案内を」


「迷う? あぁ、ここは広いね。庭広すぎ。でも迷うほどじゃないよ。俺の
 家もこれくらいだもの。俺はね、退屈だったから探検してただけ。君こそ、
 どうしてここにいるの? ここはえっと…なんていったっけ。ヴォー…? 
 いやエーゴ読みだから……ウォー? よくわかんないや。ウォーなんとかの
 家のお墓だろ。人の家のお墓で何してるのさ。このお墓の人を知ってるの?」


「……知らない。でも、ここは俺の家だから」


「へぇ、家の人。パーティは良いの?」


つい、と少年が距離を詰めてくる。鳶色の瞳。WをVの発音で口にしたと
ころを見ると、66地区旧ドイツの人間か。妙に真摯な口調で問われて返答に
詰まる。自分だってこの少年と変わらない。あそこにいる人々が嫌で避難し
てきたのだ。そして、今までずっと無目的に燃え落ちていく蝋燭を見てた。

なにをするでもなく。ウォーリアス家次期当主として変質的な父の代わりに、
賓客に一通りの挨拶をしなくてはならない立場にありながら。


「人混み…苦手、だから」


幼稚な言い訳を口にする。頬に熱が集まった。「そう」と少年がふいと退く。


「そんな顔、してるね。あそこに長くいるのは耐えられないって顔だ。でも
 良いね。そういうのは凄く良い」


「良い?」


良いものか。やっぱり戻らなくては。そう思う。けれど少年は嬉しそうに「君
は良いね」と手を取って笑った。


「とても良い匂いがする。あんな外の──アイツらなんか比較にならない。
 やさしい…好い匂いがする」


戻るべきじゃないね、と心の中を見透かすように覗き込まれる。なんて綺麗
な目をしてるんだろう。鳶色の中には無数の星が瞬いている。白い肌。薔薇
色の頬。やわらかく首筋や耳の傍でカールする髪。

綺麗な少年だ。けれど、どうしてか怖い。狼だ。資料映像でしか知らない、
あの四足のしなやかな獣の気配。芝に落ちた少年の影。人の形をしているの
かと一瞬確かめたくなる。


「離して…くれないか」


誰かに、こんな風に無造作に手を取られたことなんてない。
少年が目を丸くする。「ん」と呟いて手を離し、不思議そうに見つめてきた。
そして、一人納得したように頷く。


「あぁ…そうか…。急に触るのはマナー違反か…。これは失礼を!」


ぴょこん、と元気に一礼し、少年はくるりと踵を返した。そのまま数歩進ん
だかと思うと「あ、そうだ」と振り返る。


「“トチロー”、知らない? 俺、ずっと探してるんだ。ひょっとしたら今日
 ここにいるかもって思ったんだけど」


「トチロー…? 人の…名前?」


「うん。だってここ『ラスト・ウォーリア・レイ』の家だろ。お父さまと友
 達なんだ。だから、お父さまの親友も来てるかなって」



“トチロー”は俺と同い年なんだって。



「………」


何を言っているのか、よくわからなかった。けれど、少年のそれは大人達の
言葉と違って不快にはならない。未成熟な真剣さとともに、融けかけていた
心を現実に押し戻す。“わたし”はふわりと身を翻し、自動的になっていた
肉体に戻って首を振る。


「…残念だけど、そんな名前来客名簿にはなかった気がするよ。それに、君
 と同い年くらいの子供なんてここには」


「そっかぁ。じゃあ帰ろっと。あぁでもひょっとして、君が“トチロー”な
 んてことは? 俺ね、“トチロー”は好い匂いがすると思うんだ。好い匂い
 で…優しくて。強くて、厳しくて、気高くて! 俺が一生傍にいても良い唯
 一の人だよ。俺の全部はその人のものだよ。君がもし“トチロー”なら」



一生、守るよ。



まるで騎士のようにお伽話の王子のように少年は言うのだ。年端もいかぬ身
体をして。その瞳には少年らしからぬ輝きを秘めて。

一瞬、「そうして」と叫びそうになる。わけもわからず、少年の探す誰かで
もないのに。

なんて──甘い誘惑。


「……“わたし”は、違う。“トチロー”なんて、そんな名じゃ」


ようやく、それだけを口にした。声が震える。少年は凝っとこちらを見つめ、
すんすんと数度鼻を鳴らし、


「うん、違うね。ちょっと、『強さ』が足りないみたい。惜しいな、他は凄
 く良いのに」


と、心底惜しかったように苦笑した。“わたし”は少し目を伏せて、少年が
立ち去るのを待つ。最後のウォーリアス。最後の守護戦闘神。『なにもので
もない』という名を持って生まれてきたくせに。“わたし”が、誰かに選ば
れることなんて。


「ねぇ」


再び、耳のすぐ傍で声がする。顔を上げれば、少年が“わたし”を見つめて
いた。


「どうして…泣いてるの?」


「泣いて…ない」


まるで最初のやり取りと同じだ。けれどこの少年は。



“わたし”が泣きたいと思うとき、何故か「泣いてるの?」と問うてくる。



「泣かないで。本当に惜しかったんだ。もし“トチロー”が見つからなかっ
 たら、君でも良いよ。だから、これあげるね」


少年が細い首に腕を回す。取り出されたのは、小さなペンダント。金の鎖の
その先には、おおよそ少年が身に付けるには不相応なほど精巧な髑髏のペン
ダントトップが付いている。


「これを、あげるね。約束。だからどうか途方に暮れないで」


子供でもあやすように優しく、少年の手が“わたし”の手にペンダントを握
らせる。「いらない」と緩く首を振って、“わたし”は少年から距離を取る。


「こんなもの…もらう理由がないもの。だって、“わたし”は君の名前も知
 らない。惜しかったと言われても」


「名前? 名前なんてどうでも良いことさ。本当に大切な人に呼んでもらえ
 ないなら無くても同じだもの。理由なら──それは」


「それは?」



「俺が…今は一人ぼっちだってこと」



少年の瞳に昏いものが灯る。無邪気な仮面が剥がれ落ちて、少年本来の──
多分、少年の本来の表情が見える。

昏い…果ての無い夜の海にも似た無機質な静穏が。


「約束って……?」


“わたし”は思わず問いかける。どうして、こんな瞳をするのだろう。無垢
で、何も怖くない顔をしているのに。

どうして『なにものでもない』ような無表情に。



「うん。外にいるアイツらとはまるで違う重要で神聖な約束だよ。これをし
 たら絶対に破っちゃいけないんだ。本当は“トチロー”のためのものだけど、
 君も──君はなんだか、蝋燭みたいに融けてなくなっちゃいそうで…泣いて
 るから。これをあげるね」


口調を優しいものに変え、少年は『約束』をこの手に握らせる。“わたし”
がそれを受け取ると、満足したようににっこりとした。


「そう、それで良いんだ。あとは呼んで。君が泣きたいとき、途方に暮れた
 とき、もう一人じゃどうしようもなくなったとき…助けて欲しいとき。俺は
 すぐに大人になって、宇宙最強の男になるよ。だから、君の声に応えられる。
 何があっても、すぐに行くから」


まるで騎士のようにお伽話の王子のように。幼い声で約束する。拙いものだ。
叶うはずない。けれど、“わたし”は操られたように頷いて。


「わかった…そうする」


と言ったのだ。頼りない、牢獄に囚われた姫君のように。



「ファルケ・キント!」



不意に遠くから呼ばう声。凛とした大人の声だ。“わたし”はびくりと身を
竦ませ、少年は嬉しそうに「はーい」と未発達な喉を鳴らした。


「お父さま! すぐ行きます」


それじゃあ、と少年が駆け出していく。小さな温室に静寂が戻る。“わたし”
の手には小さな『約束』。叶うはずもない──いたいけな。

名前も…知らないのに。


“わたし”はそっと手を開いて、ペンダントに触れてみた。黄金の髑髏。窪
んだ眼窩に指先を差し入れる。


「『約束』、なら──」


連れて、いって。今すぐ。
ここから、攫って。遠くに。

遠く、誰の手も届かないようなところへ。今すぐに。


そうして。そうでなきゃ──“わたし”  は。


「“わたし”……は……」


閉ざされた空間にやわらかな微風。それは珊瑚のような色の“わたし”の髪
を、からかうように撫でていく。“わたし”は静かに目を閉じた。

背後には──気配。


「ぜろさま……」


遠慮がちにかかるのはこの家の執事の声だ。“わたし”は視線を落として蝋
燭を見る。虹色の蜥蜴。すっかりと、正体を失くしていた。

あぁ、これが『なにものでもない』“わたし”の全部だ。


「何か…不都合でもあったか」


低く、背を向けたまま問う。老年の執事は畏まり、「それが」と歯切れも悪
く報告する。


「つい先程、地球連邦総司令官殿がお着きに。家長にご挨拶をと仰られたの
 ですが……その、澪さまは」


「また、どこぞの森にでも出かけたのだろう。あの人はそういう人だ」


「は……」


執事はすっかりと身を小さくしている。わかってる。わかってるんだ。“わ
たし”は。


「では、俺が代わって挨拶を。このウォーリアスの次期当主、ウォーリアス・
 零が参りますとお伝えしろ。若輩者ではあるが…父上よりは大層マシだと」


「は」

一礼して、執事が去る。“わたし”は墓の前に立ち、ペンダントをスーツの
ズボンにひそませる。


わかってるんだ。こんな、『約束』。

もう一本。龍を模した蝋燭に火を。空の棺に捧げて虹色のそれが融けていく
さまを眺める。



「…………たすけて…………」



ふわり、と“わたし”が大気に溶けた。




















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