Plants Doll・17




★★★


「フラウ・マーリアーンヌ!!!」


「まぁ、“ヴォルフ”じゃない! どうしたの、こんな突然に」



惑星『6969』。宇宙屈指の大歓楽惑星である。ありとあらゆる星系のギャン
ブル・色街などが一同に介し、金さえあれば手に入らないものはないという。

ドラッグ、武器、娼婦、男娼、少年、少女。ここでは望めばどのような禁忌
も叶うのだ。また、それゆえに犯罪も絶えない。

脂粉の香りと血の匂い。華やかなネオンサインの裏では、腐った泥川が流れ
るような星。けれど、一年の観光客数が辺境の惑星の人口を越えることも珍
しくないというこの夜の星も、昼には打って変わった白々しい空気が流れて
いる。


「……つうか、あれ絶対“Frau”じゃない……」


ハーロックに気配を悟られぬギリギリの距離を保ちつつ、ハーロックの姿が
視認出来る場所に身を潜めながら魔地は呟いた。

『6969』に住む地球人達が集まって出来た街、『リトル・アース』。その中に
ただ一軒だけ存在する服飾品店『ラヴィアン・ローズ』。

敏郎の言葉に従い零を連れて『6969』を訪れたハーロックは今、メルヘン
ティックな店から出てきた大柄な女主人と親交のハグを交わしているとこ
ろだった。


「……ゆうに3メートルはあらぁな。俺よりデカいんじゃねぇか? あれ」


傍らで興味深げに顎を擦るのは、火龍の雇われ傭兵へヴィ・グレネーダーだ。
敏郎から秘密裏にハーロックらの様子見と身辺警護を命じられた魔地が、の
たくらと二人の後をつけているところを出くわした。どこも考えることは同
じらしい。

一応様式美として「ナニしてんだよ」と尋ねてみれば、「副長さんがなぁ」
と語尾を濁された。ごにょごにょと漏らされる言葉の端々を拾ってみると、
どうやら火龍副長マリーナ・沖に懇願されてやむを得ず出てきたらしい。

曰く、


「悪夢がどうのとかってな」


「いや、ハーロックが王子さまで海賊だから零が危ないってよ」


「初夜に尻ネギなんて冗談じゃないわ、とか」


意味は全くわからなかったが、どうやらマリーナ嬢は零の不在にかなりの消
耗を強いられているようだ。抜けた指揮官の穴を埋めるための連日の激務の
せいだろうか。問うてみれば彼はもごもごと暫く口を動かして、


「惚れてんだろ」


と短く言った。なるほどね、と魔地は納得する。惚れた男が記憶喪失のみな
らず、敵側の男にべったりなのだ。これで精神に異常をきたさない女はいな
いだろう。

ハーロックが艦長に不埒なマネをしたら即刻妨害して排除して下さい──。


涙ながらに二の腕を掴まれ、それが火龍全体の方針ではないとわかっていて
も頷いてしまった。自分としても零の様子は気になるところなので野暮と知
りつつドクトルにそれとなく零の現在位置を確認したのだという。

「ま、理由はともあれ目的が同じなら争う理由はねぇな」 厳つい顔に照れ
 臭さを隠すようにして言ったこの男を、魔地はすぐに気に入った。筋骨隆々
 として好戦的な見た目にそぐわず、繊細な心遣いの出来る男らしい。

『今』は妨害しなくても良いのかな。思いつつ、魔地は額の上で手を翳す。


「3メートルはねぇにしてもよ。デカいよな。ハーロックがまるで華奢な美
 少年に見えるぜ……」


「零もだ。アイツも大概デカい男だとは思っちゃいたが…あの“お姉さん” 
 にハグされちゃあまるで深窓の令嬢だぜ」


ごくり、と二人して喉を鳴らす。Frauマリアンヌ。ハーロックが満開の笑
顔でそう呼ぶ服飾品店の主は──明らかに『Herr』マリアンヌだった。

髭剃り跡が目に沁みるぜ。魔地は数度瞬きをして首を振る。


「マッチョで金髪ってのがまたエグいよなぁ……。なんであんなマッチョな
 んだよ。一応“女性”だろ」


「あぁ。まぁ、多いからな。軍隊上がりとか…傭兵上がりとかよ。ほれ、
 アレだ。男所帯だからな。アレコレあるうちに目覚めちゃうとかな」


「あぁ、全くわかんねぇとは言わねぇけどよ……」


魔地だって一応元軍属である。男女混合実力主義の隠密部隊ではあったが。
項垂れる魔地にグレネーダーはぽりぽりと頬を掻いて、「まぁ、ほれ、個人
の性癖ってのは人格と関係ねぇからよ」と“彼女”を擁護するような言葉を
二つ三つ漏らした。彼にも色々と思うところがあるらしい。目覚めさせてし
まった経験でもあるのか──それとも自分が目覚めているのか。

アレコレってなんだよ。思いつつ魔地は溜息をつく。深いことを訊くのはや
めよう。野暮だ。


「しかしハーロックの奴も凄いよな。人脈の広いことったらねぇぜ」


何となく気まずくなった空気を一新すべく、魔地は話題をそれとなく変える。
グレネーダーもどこか安堵した顔で身を乗り出した。


「全くだな。俺ぁハーロックって男はあぁいう手合いを嫌う性格かと思って
 たが──」


「あぁ。意外と頓着ねぇんだわ。アイツ」


それは本当だ。グレネーダーの言葉を借りるなら、「個人の性癖は人格と関
係ない」と言ったところか。ハーロックの場合はそれに相手の過去や年齢や
肩書きなど様々なものが加わる。気に入りさえすれば相手がどのような立場
の人間(人間でなくとも)でも友と呼ぶが、気に入らなければ一国の元首で
も足蹴にする。

それがハーロックという男なのだ。


「良い男じゃねぇか」とグレネーダーが口笛交じりに感嘆する。


「そういう男に評価されるってのは気持ちの良いモンだ。打算も計算もねぇ。
 最近のガキどもがハーロックに憧れる理由もわかるってモンだ」


「ガキ? アンタ子持ちかい?」


「いねぇよ。でもまぁ…な」


恥ずかしそうに頭を掻いて頬を染める。その仕草がいかにも「子供が好きな
んだ」と物語っているようだ。魔地ははんなりと目尻を緩める。


「子供って可愛いよな」


呟くと、「そうだなぁ」としみじみとした返答が帰ってきた。若すぎるハー
ロックや敏郎とは出来ない会話だ。ここに酒でもありゃ良いのに。少々惜し
い。


「あぁ、店内入っちまったな。糸伸ばすか」


「尖糸術か。噂には聞いたことあったけどよ、見るのは初めてだぜ。やっぱ
 りアンタ、あの魔地・アングレットなんだな」


故郷殺しの大犯罪人。グレネーダーの顔に複雑な表情が浮かぶ。好奇心と、
戦士としての純粋な興味と──干渉するべきではないという理性。


「まぁな。改めて言われると…変な感じだけどよ」


苦笑して、盗聴用の糸を伸ばす。少し考えたあとで2本使うことにした。零
には盗聴器などの機械類が一切仕込まれていなかったのだ。様子見に赴いて
手ぶらでは肩身の狭い思いをするだろう。グレネーダーに1本差し出してや
ると、彼は一層複雑な顔をしたあとに、「すまねぇな」と受け取った。


「集音機使おうかと思ってたんだけどな。こっちの方が精度はよさそうだ」


白い歯を見せて笑う。魔地も僅かに笑みを返して糸を耳に忍ばせた。


「よしよし、感度良好。って、マジで服作る気かよ。そんなに長期滞在させ
 る予定なのかねぇ」


「服? 俺ぁてっきり、あの店で何かしら特効薬みてぇなモンが手に入るも
 のと思ってたぜ」


「俺もだ。ここは『6969』だしな」


看板どおりの品物を扱っているとは限らない。これが『6969』での鉄則であ
る。ここで店を開く者は、大概がアンダーグラウンドに通じる者ばかりなの
だ。

娼館や食料品店では情報を。バーではドラッグを。下手をすれば道でボール
を蹴っている無邪気な少年が臓器売買の仲介人だったりもする。

見た目に騙されれば馬鹿を見る。そして、騙される方が馬鹿なのだ。厳しく、
そして華やかに無法なこの街。ハーロックが気もそぞろになると言った気持
ちもなんとなくわかる。


「でもよ、本当に気付かれてねぇのか? ここ、案外丸見えだぜ?」


耳の中の糸を調節しつつ、グレネーダーがなんとも尻の座りの悪い動きをし
た。それもそうだろう。二人がいるこの場所は、マリアンヌの店から10メー
トルも離れていないカフェの中なのだ。

二人の前にはコーヒーが置かれている。夜にはストリップバーに変身するこ
の店も、太陽が出ている間は美味いコーヒーの専門店。

魔地は店自慢のブレンドを一口飲んで、「平気だろ」と酸味のキツさに眉を
顰める。


「いつものハーロックなら…まぁ気付かれるな。でも、今は艦長さんと一緒
 だからさ」


「零を連れてるなら余計に気ぃ張っててくれなきゃよ。困るじゃねぇか」


「張ってるさ。だから、一人のときより広範囲に目が回らなくなってる」


今のハーロックの射程範囲は零と自分から数メートルといったところか。ス
リや誘拐が日常茶飯事であるこの街で、惚けた零を連れて歩くということは
無防備にも等しい。

きちんとした身なりをしていればスリに狙われ、見目美しければ人買いに狙
われる。事実、マリアンヌの店に向かう途中、零は三度ほど路地裏に引っ張
り込まれそうになった。いずれもハーロックが零から目を離した一瞬だ。
もっとも、いずれも未遂に終わったが。


「今は遠くの敵より近くの敵さ。遠くからアイツの首狙って攻撃しようって
 輩もいるかもしんねぇけどな。その時は俺が援護するし──ま、自分に向
 けられた殺気なら、アイツは爆睡してても気付くしな。それに」


「それに?」


「いくらアイツが艦長さんに集中してるからといって、ここまで気配隠して
 アイツに近付ける人間ってのは、そういない」


「なるほど」


グレネーダーの目が細められた。考えているのだろう。来るべきハーロック
との戦いのことを。彼は傭兵の傍ら、賞金稼ぎもやっていると聞いた。火龍
に雇われた身でなくとも、彼はいずれハーロックと戦うことを夢みている男
なのだ。


「“ヴォルフ”ってのは偽名か──ここでの通称か。一応身分がバレねぇよ
 うに気ぃ配ってるんだな」


「そうだよ。ま、ちょっと裏世界に詳しい奴なら誰だってハーロックの正体
 に気付くけどな。警察や物騒な輩が来たときに誤魔化すのさ。ここには海
 賊ハーロックなんて男は来てませんってね」


「来たのは“ヴォルフ”と名乗る男だけ、か。って、良いのかよ。俺ぁ一応
 敵方なんだぜ? 今は目的が同じだからコーヒー飲んでるけどよ」


「良いよ。アンタもアンタの艦長さんも、表向き善良な市民として生きてる
 人を顧客名簿の偽名一つで締め上げるなんてマネしそうにないしな」


「おぉ、そりゃ勿論よ」


グレネーダーが胸を張る。ハーロック達が消えていった店に視線を向け、
「零はそんな野暮じゃねぇ」と自慢げに呟く。


「堅物に見えるがよ…ありゃぁ良い男なんだぜ。融通も機転もききやがる。
 度胸も満点だ。俺と会ったときなんかよ、たった一人で砂漠渡ってきや
 がった。傭兵一人、その気になりゃ幾らだって屈服させる手立て持ってる
 ご身分なのによ」


「自慢なんだな」


「あぁ。まぁ、自慢っつうかな…誇りだよ。零に選ばれたことが俺の誇りだ。
 打算も計算もねぇ。お前さんの頭とはちょいと違うがな。零は純粋だ。
 良くも悪くもキレイなモンだ。なんつうかな、そういう男に求められると
 よ、自分が──何だか、同じくらいキレイなよ、そういうモンになれる気
 がしてな」


こそばゆいけどよ。屈強で豪快そうな傭兵は、少年のような顔で頬を掻いた。


「なんつうのかな、俺ぁさ、お世辞にも良いご身分ってヤツとは無縁の生き
 方してンだよな。生まれも辺境移民惑星のスラム街だ。犬っころみてぇに
 生まれてよ、犬っころみてぇに扱われてよ。宮仕えとか、正義とか、そう
 いう高尚なモンが嫌ぇなんだよな。高尚で高級な連中はいっつも俺らを
 見下しやがる。いけすかねぇ、肌に合わねぇ。だったら連中から金取る側
 に回ってやる。連中が見下すモン守る側に回ってやるってな。高尚じゃ
 ねぇなりにも正義ってのはあるだろ? そういう風に生きようってな」


「あぁ」


「でもよ、気づいたら上見てんだよなぁ。俺なんかが絶対手の届かねぇよう
 なキラキラしてておキレイな世界さ。良い服着てるとか、良いモン喰って
 るとか、そういうんじゃねぇ。なんつうか…俺が一生懸けたって手に入ら
 ねぇ……俺に似合わねぇようなモンを必死こいて見上げてンだ」


「そりゃあ」


品性というモノだろうか。言いかけて、魔地はやめる。言葉に出してしまえ
ば目の前の男を愚弄するような気になるからだ。

だが、多分そうなのだろうとも思う。仕立ての良い服も、高価な食べ物も金
があれば手に入る。だが、品というやつだけは別なのだ。あらかじめ持って
生まれ、それに相応しい環境で磨かれて光るもの。

上品な仕草、洗練された言葉遣い。それらに裏打ちされて構築された理想と
いうものは美しい。揺るぎない知性に支えられ、下手に世界の裏側を知らぬ
がゆえに無垢なもの。

それは、世界の裏側に生まれついた者には到底手に入らない。


「いけすかねぇとかよ、肌に合わねぇってのはよ、ある意味そうなりたいっ
 て欲望の一つの出方じゃねぇかと思うんだよな。あくまで一つだけどよ。
 自由に生きてる奴ぁそうじゃねぇ奴を嘲るよな。いくら良い生活出来るか
 らって色んなモンに束縛されるなんざぁ息が詰まるってよ。色んなモンに
 束縛されてる奴ぁ自由に生きてる奴を鼻先三寸で吹き飛ばしやがる。明日
 の保障もねぇ身の上が、自分勝手で無法だってよ。でもそりゃあ裏っ返せ
 ばそうなりてぇってことじゃねぇのかな。自由に生きてる奴ぁ、束縛され
 る代わりに色んなこと保障されて上手くやってる連中が羨ましい。束縛さ
 れてる奴ぁ、何もねぇ代わりに自分の好きに生きていられる奴が妬ましい。
 だからいけすかねぇんだよ。だから肌に合わねぇんだ。相手の生き様肯定し
 ちゃ、てめぇの立場が成り立たねぇからな」


「なるほど」


魔地は頷いた。筋が通っている。この男は、自分の持っている劣等感に真摯
に立ち向かってきたのだ。否定せず、弾かず。だからこそ、こうして真っ直
ぐに人の目を見て話すことに躊躇がない。ハーロックの好きなタイプだ。

俺より合うかもな。そう考えると、何だか可笑しい。魔地はハーロックに殆
ど何も話さずじまいでここまで来ているのだ。ハーロックは仲間の過去など
気にしない。その内面に何を淀ませていようとも頓着しない。

ただ、魔地が人の目を真っ直ぐに見て本心を吐露出来ないということを、内
心嘆いてはいるのだろうけれど。何があっても受け入れるのだから本心から
笑ってくれと、怒ってくれと、時折その目が語っている。

笑ってるさ、怒ることだってあるさ。魔地はいつも心の中でそう応える。し
かしそれが心の底の底からのものかと問われると、あの目を見据えて「そう
だ」とは言えない。それだけだ。

虚無だ。この身の底に残っているのはそれだけで、許されるのもそれだけだ。


淀んでる。空虚なのだ。グレネーダーに気付かれないように魔地は自嘲した。


「でもよ」


グレネーダーがふと言葉を切る。


「一端それに気付いちまうと──寂しいよな」


「え?」


心を読まれたかと動揺する。だが、傭兵は不思議そうに「だからよ」と椅子
の背に身を預けた。


「だからよ。いけすかねぇって思ってる相手のことが、実は羨ましいってこ
 とさ。俺には絶対ぇ手に入らねぇモンがよ、実は欲しくてたまらねぇって
 ことがよ。気付いちまうと、寂しいよな。いけすかねぇって気ぃ張ってた
 方が、いくらかマシだったってことに気付いちまうとなぁ」


「あ、あぁ。それは」


「でもよ、俺ぁ零と会った」


グレネーダーの口元に笑みが浮かぶ。うっとりと、どこか恍惚とした笑みだ。


「見てくればかりお上品な連中とは違う。骨のある男だ。どっか俺みてぇで
 よ、でも全然俺とは違う。おキレイで、染み一つねぇ正義の旗掲げてよ、
 道徳の本に書いてあるような生き方を素でいきやがる。作ってんじゃねぇ
 よな。意地でも劣等感の裏返しでもねぇ。本当にそうなんだ。弱いモン苛
 めが嫌ぇでよ、軍人稼業が人の幸せのためになるって本気で思ってる。見
 たこともねぇ無辜の民ってヤツか? そいつらの本当の幸せってモンを
 考えててよ、そのためなら機械化人も生身の人間も一緒くただ。恨まねぇ、
 憎まねぇ、排除しねぇ。傭兵も佐官も高級将校もみぃんな一緒だ。一緒な
 んだよなぁ」


嬉しそうに語るのだ。無骨な男が、神への信仰を語る尼僧のような表情をし
てる。


「零といるとよ、なんかこう…自分が高尚なモンになった気がするんだよな。
 勿論俺は俺だ。スラム育ちの下品なガキが、下品なまんまデカくなったよ
 うな無頼の男だ。でも零が俺の見たこともねぇような本読んでたりよ、名
 前も知らねぇような退屈な音楽聴いてたりよ──お紅茶ってのかい? 
 あぁいうの美味そうに飲んでるの見るとな、あぁ、良いモンだって思うん
 だ。おかしいじゃねぇか、俺ぁ全然わかんねぇのによ。零が良さそうにし
 てるとよ、何だか、俺にもその価値ってのがわかる気がするんだよ」


「あぁ」


それは、わかる。魔地は何故自分がこの男に好感を抱いたかを悟った。彼が
今照れたように、けれど誇らしげに語る言葉は全て、魔地にとって近しいも
のばかりだからだ。

絶対に手の届かない相手に寄り添って、その価値観を、その絶対的信念を自
分のもののように誇りに思うこと。


「だからなぁ、零が辛そうにしてると俺も辛ぇ。何をどうしたって辛くねぇ
 ようにしてやりてぇ。そのためなら俺の手が汚れちまったりよ、命なんて
 よ、どうでもいいんじゃねぇかなぁって、そんな気までしてきやがる」


「──…」


それは。


「俺の手なんざ最初っから汚れてンだ。もっと言っちまうなら生まれたとき
 からよ。零みてぇには逆立ちしたってなれやしねぇ。だけど俺ぁさ、許さ
 れるなら零みてぇになりたかったよ。この世の酸いも甘いもよ、零みてぇ
 に感じてみたかった。俺ぁ俺だ。特に後悔してるでも、てめぇ自身を卑下
 してるってわけでもねぇ。でもよ、理屈じゃねぇんだよな」



あぁ、それは。



「零のためならよ、アイツが汚れねぇで真っ白いまんまでいてくれるならよ、
 俺ぁ俺がどうなっちまっても構わねぇ気がするんだよなぁ」



それは──ハーロックが敏郎に、かつての魔地が9番目の『エルダ』に捧げ
た気持ちと同じものだ。


この世で唯一、絶対の『女神』に。
どこか自分に似て、自分とは異なる清廉潔白な存在に。


ただ、その存在のために。彼が、彼女が、己が心の赴くままに自身を穢さず
生きてくれるのなら。

全ての穢れを負っても良い。生涯、抜き身の剣で良い。知らぬ者はそれを依
存と呼び、そこに信念や意志などないのだと嘲るが。


違うのだ。彼が、彼女が信念であり意志なのだ。本来形のないモノが血と肉
を持って生きているだけなのだ。だからこそ、彼らに選ばれ、彼らを選んで
全てを捧げることが誇りになる。

幾千、幾億に存在する選択肢の中から、自身が選び取り選ばれた。その手を
離すことこそが、自身への裏切り。信念への背信。



「アンタは、あの艦長さんの騎士なんだな」



コーヒーを一口。少しだけ苦いものを含みながら魔地は問う。「そんなに響
きの良いモンじゃねぇよ」とグレネーダーは苦笑した。


「騎士はアンタだろ。元だけどよ。イボウル星系一、いや、宇宙一と名高い
 エリート集団『ナイツ・オブ・アンデッド』の騎士団長さまじゃねぇか。
 なんつったったけかな、ほれ、あの9番目の『エルダ』さま。神に近いっ
 て言われてたんだろ。零は確かに良い男だが、そこまでじゃねぇよ。『エ
 ルダ』じゃねぇし…地球での評価なんざぁ敗軍の将だ。機械化人の狗なん
 て口さがねぇこと言われてるしな。アイツぁ負けねぇように踏ん張って
 たけどよ」


厳つい騎士の目にふと悲しみが宿る。


「今この状況見ちまうとなぁ、ずっと辛かったんだなぁって思っちまう。
 だから俺なんかよ、中途半端なモンさ。零が本気で嫌ならよ、本気で戦う
 のが嫌ならよ、地球連邦も火龍もどうでも良いじゃねぇかって。はは、真っ
 白な正義が羨ましかったはずなのにな。俺の雇い主は零なんだからよ、零
 の思うまんまで良いじゃねぇかって思っちまう。傭兵根性が抜けきら
 ねぇっつうか、まぁ、俺には向いてねぇんだろうな。騎士とか、宮仕えっ
 てのはさ」


「──…そうか」


多分、それが正しいのだ。騎士ならば、ただ剣を捧げた者の心のままに。選
んだその手を離さぬままに。征く手を遮るものを斬るだけだ。

どこに堕ちても。もしも彼らが疲弊して、もう立てぬと言うのならその心の
ままに。

倒れた彼らの盾になるのだ。血と肉が潰えても、信念までが消えるわけでは
ない。形のないものに戻った、その意志のために戦うのだ。


どんな形でも、自分の信じたことが消えゆくわけではないのだから。



魔地は違えた。政府の意向を、彼女を取り巻く全ての者の意思を、彼女の意
志と思い込んだ。

彼女が『エルダ』を放棄すれば、彼女が彼女でなくなると思い込んだ。自分
が騎士の資格を返上すれば、自分が彼女の騎士でいられなくなると慄いた。



わたしと一緒ににげてください──。



手を取って、罅割れた顔で呟いた彼女の手を、魔地は離してしまったのだ。
騎士だから、彼女が『女神』だったから。


シーラ・ナゼグダー。9番目の『エルダ』。


神に近しいと言われる彼女が誇りだった。無辜の民と呼ばれる不特定多数の
人間のために、自身の持てる知識の全てを捧げる彼女を愛していた。

彼女の夫たる資格を得たときには本当に嬉しかった。彼女に、政府に、宇宙
の全ての星々に、自分こそが彼女の守護者なのだと認められたのだ。一生守
ると約束した。

だから。


怖かったのだ。彼女が自分に施した遺伝子操作手術の失敗がではない。自分
の命の大半が、生殖能力が喪われたことがではない。

彼女がそのことで壊れていくことが。『女神』の資格を失うことが。
自分が彼女の守護者でないと言われることが。騎士の資格を失うことが。


ただの男と女になったら。この愛までが消えるのだと錯覚したのだ。


怖かった。だから、崩れゆく彼女の手を離し、彼女を遥か高いところに投げ
出した。自分は膝をつき頭を垂れて、それで全てが丸く収まると逃げ出した
のだ。

だから、魔地は背徳の騎士だ。彼女の死後、本当に彼女を愛していたことに
気付くなんて陳腐だ。彼女の亡骸を冒涜した科学者と、彼女を利用してしか
成り立たないあの星に向けた怒りなど、自分自身への怒りに比べればどれほ
どというものでもない。

星を滅ぼして、自分も滅ぼしてしまいたかった。けれど、彼女と同じ場所で
眠れないのならどこにいたって同じ地獄だ。



君が生きててくれるだけで良かったなんて!!



信念も、意志も、虚無の中に埋没した。無為な生こそが自分に与えられた罰
なのだ。それも死を拒むための詭弁なのかもしれないが。


でもせめて。本当の彼女を憶えている人間が、一人くらい生きていても。



それが本音なのかもしれない。




「アンタは騎士だよ。ヘヴィ・グレネーダー」


魔地は、ようやく真っ直ぐ彼を見つめた。思わぬ視線を受けて、彼が息を呑
む。今彼の目には、どちらの自分が映っているのだろう。ふと考えて、そん
なことはどうでも良いことに気付く。


「騎士だよ。本物だ」


コーヒーを飲み干す。少し酸味がきつすぎた。舌が痛いな、と顔を顰めると
「口に合わねぇかい」とグレネーダーが笑った。


「確かに、ちょいと酸味がキツすぎるな。コレは」


「ここ原産の豆らしいからな。地球のモン慣れしてるとどうもね」


笑い合う。本当に良い男だ。魔地は思う。


「おっと、奴さんたち出てきたぜ。追うかい」


『ラヴィアン・ローズ』から出てきたハーロック達を見とめてグレネーダー
が立ち上がる。魔地は慌てて懐からコインを取り出し、テーブルに置いた。

ハーロックが自分達のいる方向に背を向けたのを確かめてから、用心深く外に出る。


「アンタは俺を騎士と言うがよ」


傍らに並んで、ふと彼が呟く。その視線の先には、零に寄り添うハーロック
の背中。


「なんつうか…騎士って言葉はよ──あぁいうモンじゃねぇのかな」


寄り添い、腰を抱き、時折微笑みかけてはさりげなく零の身を安全圏に誘導
する。

その光景に違和感はない。無駄のない動きも、零と並んで歩くすらりとした
長身も、まるでそうあるために生まれてきたのだと言わんばかりにはまっているのだ。

零の笑顔。幼子のようにハーロックの腕につかまっている。白昼でも堂々と
人攫いの起きるようなこの街で。事実、三度も路地裏に引き込まれそうに
なったというのに。

宇宙一安全な場所にいる。そう信じてやまない顔をしている。



「畜生、イイ男ってのは何をしててもサマになりやがる」


いけすかねぇぜ──。スラム街で育ったという悪童は、空高くを仰ぐような
顔をして白い歯を見せた。魔地はくつくつと肩を震わせる。


「まぁ、ひがむなよ。見てくればかりはしようがないさ。行こうぜ騎士サマ。
 海賊の魔の手からお姫さまを守る大事な任務だろ」


「だから、ンなモン柄じゃねぇって」


「なんだい柄ってのは。アンタ腹に水玉模様でもあるのかよ」


「そういう柄じゃねぇだろが。アンタも騎士って柄じゃねぇなぁ」


「そうだよ。騎士なんて柄じゃなかったのさ」




ただ──愛してたのだ。そう言えば良かったのに。




「さ、尾行開始だ。私語厳禁でいこうぜ」


この男は、ハーロックならどうするだろう。争いを厭うて、今にも倒れてし
まいそうな零の手をどうするのだろうか。

ハーロックは騎士だ。言うまでもない。そして、この傭兵も。



……こりゃ戻らないかもしれないぜ、敏郎。



魔地は、遥か高みで成り行きを観測しているであろう『女神』にそっと呟い
た。




















  <18>へ→ ←Back











アクセス解析 SEO/SEO対策