死と乙女・8





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やんでいた雨がまた降り始めた。
広い部屋。書斎として与えられた一室で、私はふとキーボードを打つ手を止める。『メ
ディカル』に提出するレポートの作成が今終わったところだった。

部屋が暗くなっている。機械の目にはそれほど沢山の光が必要ないから、モニタに
集中している間に夜が訪れていたことに気付かなかった。

一度背筋を伸ばして、卓上のランプを点ける。一度集中してしまえば生身の人間の
ようにそれが途切れることはない。夜の闇が忍ぶ音も、雨が窓を叩く音も、そうし
ようと思わなくては気付かないのだ。

オレンジ色の仄かな明かりが、重厚で暗い部屋の一角を照らした。

窓の外は、雨。しかし硝子を伝うその色は澄んでいて、かつての灰混じりの黒い雨
ではない。一年以上も続いた不安定な気候も、ようやく落ち着きをみせてきている。

時計を見ると、時刻は既に0時を回ろうとしていた。


「…遅いな……」


声に出して、呟いてみる。今日には戻ると言っていたはずだ。
私は立ち上がり、パソコンを閉じて書斎から出る。消えていた廊下の明かりを灯し
つつエントランスに着くと、門外に取り付けられていた音声付センサーが丁度主の
帰還を告げた。


「──ドク」


外は雨だ。タオルを用意すべきだったと私は内心舌打ちする。黒いカシミアのコー
トも仕事用のトランクも珊瑚色の髪も大理石の質感を持った肌も、全て雫に濡れて
しまって。正門から数百メートルの距離を走って来たのだろう、少し息を弾ませて
私の『患者』が立っていた。

否、今は『患者』ではないと表するべきだろうか。一年前に機械化人将校によって
砕かれた手足は半年も前に処置がほぼ完了している。監視付きのリハビリも、白い
温室のような病室への事実上拘禁も全て解かれた。裁判も無く『特別恩赦』を与え
られ(しかしそれが銀河総督府の意向でないことは、通達に来た者達の表情から何
となく読み取れたものだ)、元通りの将官の地位と権限を許された地球人最後の艦
隊司令。


三度目の航海訓練を終えて戻ってきたその人を、私はセーターが濡れるのも構わず
に抱き締めた。


「……少々、遅かったですね」


「まだ…今日だろう?」


「二分前まではね」


頬を伝う雨を拭い、髪を掻き上げる。水を含んでしっとりと重くなったコートを脱
ぐように肩口に手をかけると、彼は大人しくトランクを床に置いた。


「──細かいな、君は」


「えぇ、医者は時間に細かいものです。一分一秒が大切ですからね。軍人の方もそ
 うだとお見受けしましたが」


「制服を着ているときだけはな」


くす、と彼が耳の傍で笑う。私は脱がし終えたコートを腕にかけ、軽く彼の顎を撫
でた。

ウォーリアス・零。もうこんな表情をするようになった。私が彼と出逢ったときは
まるで万年雪に眠る鉱石のような瞳をしていたのに。

何も見ず、何も感じないような瞳をしていたのに。


「着替えとシャワーを」


私がトランクに手をかけると、「良いよ」と彼が首を振った。


「ドク、私はもう大丈夫だ。君の治療で、もう何ともない」


「では私は着替えて来ましょう。貴方を抱き締めたら濡れてしまった。全く、私に
 大丈夫と言うのなら、雨の日には車を使って頂きたいものですな。もしくは傘を」


「宇宙にいたから、気付かなかったんだよ。車は──ちょっと疲れていたしね」


自室に向かう階段を上りながら、微笑む。一年で、彼は微笑を取り戻した。何も見
ぬ瞳に私を映してくれたのはいつの頃からだったろう。心を許すようにこの手を
取ってくれたのはいつの頃だったろう。機械のこの手を、温かいと言ってくれたの
は。本当に私を必要としてくれたのは。

私を──この家に招き入れてくれたのは。


彼が家庭を築く場として選んだのは、連邦軍人に与えられる借家だった。第58地区
では旧王家に次ぐ規模と土地を有するウォーリアス家。大きな屋敷で戻らぬかもし
れない夫を待つのは辛かろうと、新婚だった妻を慮った移動だったという。

けれど、結局戻ったのは彼だけで。小さな家は跡形も無く、無用と思った屋敷と庭
園は半壊したものの、別棟はそのまま残ってしまった。

小さな森と、小さな温室に囲まれた白い離れ。どこか高級なサナトリウムを思わせ
る佇まいの別棟に、私と彼は住んでいる。

自分のために呼び寄せられたのだから、と退院するその日に彼が私の手を引いてく
れたのだ。退院する患者。もう私の役目は終わっても良いはずなのに、私は何故か
その手を拒めず。

彼の経過が気になる。そして、地球には地球人の身体を理解する医師が不足してい
ると、『メディカル』に報告して今に至る。

実際、地球には医師も医療器具も薬品もまだ充分ではない。私は彼が不在の間、車
を借りて幾つもの医療施設を回っている。その結果をレポートにして『メディカル』
に送信すれば、必要な機材や薬品はすぐにでも地球に運ばれてくるのだ。

偉大なる叡智の使徒、4番目の『エルダ』Dr.ジャック・クロウヴァの名と、その意
志の元に。

全ての病める者に平等に。それが、機械化帝国の支配を受ける敗戦の星だとしても。
彼の意志を阻めるものなどこの宇宙には存在しない。

『エルダ』の肩書きはこんなときに利用するのだと、一世紀を生きる老獪な師はよ
く笑う。心から、肩書きの下らなさを睥睨するように。


「きちんとバスタブに湯をはって。入浴剤はライムにして下さい。私は夕食を温め
 ていますので、出てきたらリビングに」


「わかった。ドクターの仰るとおりに」


欄干に手をついて、彼が笑う。私の師とは対照的に、どこか苦しげで切なげな笑い。
それが今の彼の精一杯なのだと知っているから、私は気付かぬふりをして微笑みを
返す。


「えぇ、そうなさい。それと──今夜のティーは?」


「ん…ダージリン……いや、アッサムで。梨のコンポートをつけて。夕飯なんてい
 らないから、甘いのが食べたい」


「駄目です。デザートはデザート。夕飯は夕飯できっちりと摂って頂きます。貴方
 はサプリメントに頼りすぎですよ」


「──Yes,Sir ご命令に従います」


ふざけるように敬礼を一度。私が「こら」と声を上げると「それじゃあ後で」と身
を翻す。仔猫のような人だ。自室のドアが閉まったのを見て、私は眦を下げる。姿
形は大人をして、彼の心は少女とも少年ともつかない。

優しい人。やわらかな人。日々を過ごして、思うのはそんなことばかりだ。

本を読むのが好きで、子供達の遊ぶ姿を公園で眺めるのが好きで、草木の花咲くの
が好きで。

早朝の霧がかった庭を歩くのが好きで、そうかと思えば昼を過ぎても起きてこない
ときもある。

幸せな夢をみているときはキスを欲しがり、悲しい夢をみていたときは抱擁を欲し
がる。

やわらかな人。儚い人。軍属の制服に身を包むと、まるで別人の顔になる。帽子を
目深にかぶり、手袋をきつく締めて。姿見の中の自分を長く見つめて、儀式のよう
に変貌する。

それがたまらないと──彼の背を見送るたびに思う。


私は暫く、閉じた扉を見上げていた。シャワーでバスタブを埋める音がする。穏や
かな生活音。彼にはこれが相応しいと思う。

軍人は辞めろとリハビリの最中何度も勧めた。貴方の適性はそこにはないと。身体
の戦闘能力が高いことや、判断力の有無などがどうということではなく、『貴方』に
は向かないと何度も言った。「知ってる」と、『彼』はいつも寂しそうに笑って。


知ってる、と。わたしのこの手は、誰も守れなかったと。


背後に守る人々を傷つけて、敵と呼ばれる人々の命を奪って。
機械化人であることなんて、何も関係ない。元は人間。歯車で出来ていても命は命。

大切に思う人達があったろう。侵略戦争でも、待っている人達がいただろう。わた
しのしたことと、彼らがわたし達にしたことと、何も変わらない。おんなじだ。

ドクトル、わたしは戦争を知らなかったけれど、そのことは知ってたよ。知ってい
たのに、守りたいものがあったから、見ないふりをして沢山の戦艦を落としたよ。

狂信するよりもなお悪い。だから、こんなことになったんだね。


沢山の人に憎まれて。沢山の機械化人に憎まれて。全部、わたしの咎なんだね。

でもドクトル。わたしは誰も憎めない。誰かを責める気になんかならない。ただた
だ、わたしが許せない。


憎めば──良かったのかな。心から、敵を憎めば良かったのかな。


そうしたら、勝てたかな。勝たなくちゃどうしようもなかったのに。


わたしが許せないなんて、当たり前なのに。



戦うのは…もう嫌だよ。




リハビリのために足だけを床について。膝を折り、脚の具合を確かめる私の目を見
ないようにしてされた告白。

そうなさい、と私は言った。特別恩赦が出た日のことだ。もう自由だと言われたの
なら、待遇も何もかも蹴ってしまうと良い。『貴方』は貴方の望むように生きなくて
は。

償いがしたいと言うのなら──それは戦い以外にも道のあること。



「そうする」と『彼』は小声でそう言った。けれど、恩赦の出されて一週間。退院
して、自由を得て、花束を持って家族のいない家に戻った朝。久しぶりに部下の面々
に会えるのだとそのまま軍部に赴いた夜明け。


「辞められない」と少しだけ頬を腫らして帰ってきた。その日も雨が降っていた。
今よりももっと雨に濡れて、今よりももっと途方に暮れた笑顔をして。

「辞められないよ、ドク」と出迎えた私の胸で呟いた。


…逃げられない。逃げちゃ──いけない。家族を亡くしたのはわたしだけじゃない。
地球は今が大事なときなんだ。死んでいった人達のために、わたしはわたしのするべき
ことをしなくては。




……戦わなくちゃ。



少しだけ頬を腫らして。そればかり繰り返す。私は初めて、この身が機械であることを
もどかしく思った。濡れて冷え切った体。私のこの身は温もりを分けることさえ出来ない。


「貴方は…貴方の好きにして良いんですよ。貴方を一番大切にしなくては」


抱き締めて、髪を拭いながら言えたのはそれだけ。誰だ。この人に手を上げたのは。
人は誰だって自分の好きにして良いのに。戦うのは嫌だと呟いたこの人を、戦場に
引き戻すのは誰なんだ。

心中、見知らぬ誰かに悪態をつく。「殴られたのですか」と問うと「わたしに意気地
がないから」と『彼』は困ったような顔をした。


わたしの父の部下だった──人。今は父にも等しい人。あの人は父を尊敬してた。
父に頼まれて…わたしの全部に責任を持ってくれた。あの人の言うことは父の言う
ことと同じだ。だからわたしは父に叱られてしまった。


父は命を懸けたのに。わたしは逃げようとしたんだから。



シャワーを浴びさせて、着替えさせている間、『彼』はぽつりとそうこぼした。わた
しは、軍神ウォーリアス・澪の息子だから。

私はもう一度繰り返す。「貴方は、貴方を一番大切にしなくては」。


「でもドクトル」。跪いてローブの帯を結ぶ私の目を見つめて、彼は壊れそうな顔を
して言った。



「わたしは、わたしが一番大切じゃないと思う」



笑っていた。眉を寄せて、切なそうに。

あぁ。私はそのときほど、この身が生身に戻れば良いと思ったことはない。機械の
心臓では、機械化された0と1しか残らぬ理性的な思考では。

たった一人の人の心も救えないのだ。夜の訪れにさえ気付かない。機械仕掛けの便
利な体。

ウォーリアス・澪。名前とその名声しか知らない男。彼の父。既に死者となった者
から、あの人をどう解き放てば良い? 父上はきっと貴方のそんな顔を望んではい
なかったでしょうとでも言えば? 私はウォーリアス・澪を知らないのに。

貴方と彼は違うでしょうとでも? 当たり前のことだ。たとえ親子でも、その姿や
人格、能力を司る遺伝子配列は同一ではない。一卵性の双生児さえ90%程度を同じ
くするだけなのだ。

けれど、そんな言葉が何になる。彼を本当に救うこと。本当に彼が痛みのない笑顔
を取り戻すこと。多分、医学書にはないことなのだ。




シャワーの音が、止まった。夕飯を温めなおして、紅茶を淹れなくては。アッサム
ティーにミルクを入れて。梨のコンポートを盛り付けて。

私は、溜息をついてキッチンへと向かった。




















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